(クウェート・シティ)-クウェートには、無国籍の「ビドゥン(Bidun)」と呼ばれる人びとが10万6千人を超える。クウェート政府は、何十年も前から、「ビドゥン」の国籍要求に応えると約束しながら、未だにその約束を果たしていない、とヒューマン・ライツ・ウォッチは本日発表した報告書で述べた。
本報告書「過去に囚われて:クウェートの『ビドゥン』無国籍の苦しみ」(全63ページ)は、世界で最も裕福な国の一つであるクウェートで、「ビドゥン」の人びとが、通常の社会から見えない片隅に追いやられ、保護のない脆弱な生活を送っている現状を詳述。「ビドゥン」の多くは貧困にあえぎ、政府は、「ビドゥン」を「不法滞在者」として扱っている。クウェート政府は、出生証明書・婚姻証明書・死亡証明書など生活に欠かすことのできない証明書を、「ビドゥン」に発行してこなかったほか、公立学校での無償教育や合法的雇用も認めてこなかった。
ヒューマン・ライツ・ウォッチ中東局長のサラ・リー・ウィットソンは、「ビドゥンたちは、他のアラブ世界の民衆と同様、もう我慢の限界だ。政府が本来であれば何年も前に行うべきだった改革を要求している」と語る。「ビドゥンたちの非暴力の抗議デモを受けて、クウェート政府は改革を約束した。しかし、さらに踏み込んで、ビドゥンの国籍要求に対応すべきだ。」
2011年2月と3月、数百名にのぼるビドゥンたちが、国籍申請に応じない政府に対する抗議活動を行なった。これに対応してクウェート政府は、出生証明書・婚姻証明書・死亡証明書の交付、無償医療の提供、雇用機会の改善など幾つかの新たな支援策を約束した。仮にこうした約束が実行されれば一定の前進といえるものの、それだけでは、ビドゥン問題の根本、すなわち無国籍問題は解決されない。
夫を亡くしたビドゥン女性ウンム・ワリード(43歳)は、死亡した夫との関係を証明する文書を持っていないと話した。「ビドゥンが死んだって死亡証明書は出ません、それに、夫がいたっていう証明書もないんです」と言う。バシムAはヒューマン・ライツ・ウォッチに「私たちには身分を証明するものがなにもないの」と話す。「息子は出生証明なしで生まれて、死亡証明なしで死んだわ。」
クウェートには1961年の独立以来ずっと、無国籍問題が存在する。独立初期に行なわれた国民登録期間が終了後、政府当局は、ビドゥンの国籍申請先を、一連の委員会に変更。これらの委員会は、ビドゥンに関する公文書や社会保障を管轄する唯一の権限を与えられていたものの、国籍申請は受け付けなかった。クウェート法は、裁判所に国籍の有無について判断する権限を与えていない。
1980年代中頃から、クウェート政府は、ビドゥンの大多数は他国の国籍を有する証明書を故意に破棄した"不法滞在者"という立場をとる一方、個々人による国籍確認請求は受け付けていない。登録されていないビドゥンたち(国籍申請を当局により却下されたか、あるいは、登録を拒否されたビドゥン)は、さらに厳しい立場におかれており、移動の自由に対する制限や絶え間ない強制送還の恐怖におびえている。
国籍の恣意的はく奪は国際法で禁じられており、国籍の有無を審査する際には、申請者が長年にわたり築いてきた社会的・文化的・経済的つながりなど、申請者と被申請国の「真正かつ実効的なきづな」(genuine and effective links) を考慮するよう義務付けられている。クウェート政府はビドゥンの国籍請求を審査するため、国際的な人権保護基準を取り入れ、迅速かつ透明性を確保した制度を創設するべきである。審査のプロセスでは、ビドゥンたちとクウェートとの長い歴史的結び付きを考慮するべきであるとともに、政府決定に対しては司法審査の機会を与えなければならない、とヒューマン・ライツ・ウォッチは述べる。
「不法滞在者」扱いされているビドゥンは、公的証明書を入手しようとすると、様々な障害に遭う。結果として、様々な社会保障を受けられず、社会の構成員としての役割を果たせないまま放置されているビドゥンが多数生まれている。不法滞在者問題解決中央機関(Central System to Resolve Illegal Residents' Affairs)、別名"ビドゥン委員会"は、ビドゥンからの請求を処理する任を負う新しい行政機関であるが、ビドゥンに関する公的案件をすべて認可するべきだ。
ヒューマン・ライツ・ウォッチは本報告書作成にあたり、無国籍だと言うビドゥン18人、クウェートの人権活動家、市民運動家、弁護士、研究者等、合計70人から聞き取り調査を行った。また、ヒューマン・ライツ・ウォッチは不法滞在者問題執行委員会 (Executive Committee for Illegal Residents' Affairs)のメンバーとも会談をした。
聞き取り調査に応じたビドゥンたちによれば、委員会は、申請者が他に「本当の国籍」を持つ証拠(ビドゥンは、その証拠を見る事も反論する事も認められなかった)があるとして、出生証明書・婚姻証明書・死亡証明書などの公文書交付の申請を却下。ビドゥンたちは、家族との法律上の関係を証明する手段さえない状態におかれている。
国際人権法により、各国政府は、合法・非合法を問わず全ての住民について、子どもの出生登録を行なうよう義務付けられているほか、結婚などの家族を構成する権利を認めることも義務付けられている。クウェート政府は、ビドゥンが、出生証明・婚姻届・死亡証明・パスポートなどの公的証書を受け取れるように保証しなくてはならない。
「ビドゥンに対し、証拠も公開しないで外国籍を持っていると決めつけ、クウェート政府が彼らに基本的な身分証明書を交付していないのは、恣意的だしフェアでない。ビドゥン問題をできるだけ隠そうとするクウェート政府の政策は、問題解決に寄与しないばかりか、弱い立場の人びとに苦しみと疎外をもたらしている」と前出のウィットソンは指摘する。
さらに、ビドゥンたちは、教育への権利・健康への権利・労働への権利などの社会的・経済的権利をも侵害されている。クウェート政府は一部支援金を提供し、5月26日には国営の組合を通じて給食手当用の配給カードの提供に合意した。しかし政府は、ビドゥンに対しては、執行力ある権利としての福祉給付を認めていないほか、差別政策をとり続けている。
一部のビドゥンはセキュリティーIDを使ってサービスを受けているが、未登録ビドゥンはそうした証明書さえ持っておらず、逮捕され強制送還されるのを恐れて外出もままならない。クウェート政府は、支援金給付(この春に約束した改革の一部を含む)の対象から未登録ビドゥンを除外。未登録ビドゥンは、教育・医療・就職において非常に大きな障壁に直面している。
クウェート政府は、子どもの権利条約の締約国である。よって、クウェート政府は、すべての子供に無償の初等教育を保証する義務を負っている。しかし、ビドゥンの子どもの大半は、クウェート人用の無償の公立学校に通えていない。そのかわり、ビドゥンの子どもたちは、限られた教育費補助を得て、ほぼビドゥンのみが通う質の悪い私立学校に通わざるをえない。その一方、クウェート人の子どもたちは、大学レベルまで無料で教育を受けている。
ビドゥン女性ウーム・アブドラ(58歳)は、4人の孫のうち2人は学校へ通っていない、学校へ通っている孫の男の子のうち1人は授業料補助を受けたが、もう1人の孫は受けなかった、とヒューマン・ライツ・ウォッチに話した。学校に通ったビドゥンは、たとえ学校での成績が良くても、さらなる高等教育を受ける機会や就職口がないことを嘆いていた。
「私たちの学校はとってもひどかった。上位4人の成績で卒業したけど、何もできることはなかったわ。」と24歳のビドゥン女性ファティマAは語る。
「不法滞在者」とされているため、ビドゥンが合法的に就ける仕事はほとんどない。政府はビドゥンが応募できる職域を非常に狭く設定しているため、街頭での野菜売り・自動車修理・仕立屋のようなインフォーマルで不安定な仕事にしか就けないと話すビドゥンもいた。ビドゥンは資産所有や業務上の免許を取れないので、自分で起業したビドゥンも、免許や資産登録を、クウェート国籍を持つ友人や親戚に頼るしかない。
「親父はクウェート軍に27年間奉仕したけれど、今俺の家族で働いてるのは1人もいないよ。」と50歳のビドゥンであるザーヒルは語った。
聞き取り調査に応じたビドゥンたちには、医療を受けることもままならないと語った。貧しささゆえに、処方された薬を買えない者もいれば、病院や診療所での治療に必要とされる証明書類がない者もいた。クウェート政府は最近、ビドゥンに対し、無償で医療を提供すると約束した。その一方で、すべてのクウェート国民は、国営の病院や診療所で無料医療を受けられる。
無国籍者の権利に関する国連特別報告者(UN Special Rapporteur on the rights of non-citizens) は、「全ての人びとは人間であるというその一点の特質において」、「例外的な区別」を除き、教育や医療を受ける権利を含む「全ての人権を享受しなければならない」と強調している。さらに、クウェート政府も締約国となっている「人種差別撤廃条約(あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約)」は、出身国や無国籍を理由にした差別を禁止している。
「自由に使える資金が潤沢にあるにも関わらず、学校に通えないクウェートの子どもや、その日暮らしで生活しなければならない家族がいることは恥ずべきことだ。ビドゥンを別の学校、社会の片隅、非合法の仕事、別個の生活に閉じ込め、クウェート政府は隔離政策を行っている。これは言語道断で最悪な差別形体だ」とウィットソンは指摘する。
背景
クウェート独立までの間に取られた国籍取得プロセスにおいて、クウェートの周辺部で暮らしていた多数の人びと、とりわけ遊牧民ベドウィンの人びとは申請手続きを行わなかった。識字能力がないため、クウェート国籍法の下、申し立てを裏付ける文書を作成できなかったり、国籍の重要性を理解していなかったりしたことが背景にある。
1960年代、70年代、クウェート政府はビドゥンに、投票する権利を除き国民と同じ社会公共サービスを受ける権利を与えた。しかし一連のテロ攻撃を受けるなど1980年代になって政治が不安定になった際、ビドゥン政策は大きく変化。政府はビドゥンから、公立学校での教育や無料医療を受ける権利、特定の国家公務員として就職する権利などをはく奪。政府当局は、「大多数のビドゥンは、クウェート国民が有する権利を自分も欲しいと思って、本来の身分証明文書を破棄した周辺国の国籍保有者であり、『不法滞在者』である。」と断言し始めた。
1991年のイラクによる侵攻とそれからの解放の後、ビドゥンは自分たちへの風当たりと疑念が急増していることに気づかされた。ビドゥンがイラクからの潜入者であるという疑念が強まり、もはやクウェート社会の一員として見られなくなり、多くのビドゥンはクウェート軍や警察での職を失ったのである。
2010年11月、クウェート政府当局は5年以内に問題を解決するため新たな取り組みを始めると約束し、今年2月と3月に起きたビドゥンによる抗議運動を受けて、全ての登録済ビドゥンに対して、無料医療と子どもが無償教育を受ける権利を与えるとともに、雇用の機会を増大するという更なる約束をした。しかしながらこれらの約束は、未だに強制力を有する法的権利とはされていない。