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生死をさまよう人々

ビルマのロヒンギャの窮状

 

生死をさまよう人々

ビルマのロヒンギャの窮状

はじめに
ビルマ国内でのロヒンギャの状況
ビルマにおけるロヒンギャに対する国籍の権利の否定
タイ政府の責任と誤った抑止政策
近隣諸国がとるべき方策
政策提言

 

はじめに

200812月末、数百人を乗せたあふれんばかりの小型船舶が数隻、インドのアンダマン諸島に接岸した。船上にいた人々のほとんどはビルマ西部出身のロヒンギャムスリムで、その多くが衰弱していた。乗員がインド当局に語ったところによれば、人々ははじめにタイに漂着したものの、タイ当局によって無人島で2日間拘束された後、数袋の米とわずかの水だけを持たされて外洋に追い返されていた。またインド政府当局者と医師に対してロヒンギャたちが語った証言によると、洋上では船舶を停止させられ、ビルマ海軍の水兵から拷問を受けたこともあったという[1]

悲しいことに、これは特別な出来事ではない。ロヒンギャなどビルマ出身者の中には、抑圧から逃れようと、あるいは今よりまともな生活を送ろうとして、祖国を離れた人々も多い。東南アジアでは、逃避行にでるロヒンギャの存在は日常的なものだ。今回が特別だった点は、この人々の窮状が20091月と2月に撮影されたことにあった。数百人の成人男性と少年が朽ち果てたボートに詰め込まれ、痩せ衰え、一部は血にまみれているというその様子、さらに、上陸後もさらに同様のショックと驚きを与えるシーンがテレビ画面に映し出された。それは現代の出来事とは思えないようなものだった。写真に収まっていたのは、数百人のロヒンギャ男性が、武装したタイ当局者(警察、海軍、国立公園警備隊など)に監視されながら、海岸であおむけになって一列に寝かせられている光景だった。タイの当局者は後にこう主張した。外部の人から見れば残酷に見えたとしても、こうしたやり方は大勢の容疑者を管理する際の標準的な方法なのだ、と。

タイのツーリストの集まるビーチでタイ当局に拘束されたロヒンギャの姿をはっきりと収めた写真の一部は、外国人観光客が撮影したものだった。もしこうした外国人が偶然その場に居合わせなかったとしたら、こうした話はせいぜい噂話止まりか、そもそも外に出ることすらなかったかもしれない。タイの海岸で撮影されたロヒンギャの姿は『サウスチャイナモーニングポスト』紙に掲載された後にBBCCNNで放映された[2]

タイ政府のロヒンギャへの処遇について、国際社会からは批判が噴出。批判は、タイ政府の冷淡な「押し返し」政策に集中した。この「押し返し」政策について、当時発足したばかりのアピシット政権は当初その存在を否定していたが、その後、調査を行うとの見解を示した。国際的な懸念が高まる中でも、例年と同じように密入国を手助けする業者が手配した船が続々とタイにやってきた。乗船者の多くはタイ海岸での出来事など知るよしもない。最終的にタイ政府は、話を歪めているとして報道機関を非難した。そしてロヒンギャは経済目的の移住者であって難民ではなく、タイに流入してくるロヒンギャを受け入れることもできないと述べた[3]

タイ政府には、一時収容施設を設置した上で、上陸したロヒンギャが難民、庇護希望者、非正規移住者のどれにあたるかを確認してはどうかとの提案がされた。しかし、タイ政府はこの提案を受け入れなかった。また、タイ政府の国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に対する対応はというと、タイ当局が拘束する数百人のロヒンギャに対する限定的なアクセスを許可しただけだった。さらに、ロヒンギャの大半に罰金を科し、ビルマに送還する準備をしていた[4]。ロヒンギャは送還を恐れているが、これは、ビルマ当局から激しい虐待を受けたり、ビルマから不法出国したとして恣意的に逮捕され、投獄や罰金刑のほか、ファミリーリストからの削除といった処罰を受けたりする可能性があるからだ[5]1月から2月にかけて拘束されたロヒンギャ男性の多くは、依然として南タイで拘束されている。

今回タイに上陸したロヒンギャは、このようにして国際的なメディアと政府の注目を集めることになった。だがビルマとバングラデシュの貧しさや悲惨な現状、広範な人権侵害から逃れようと船に乗る人々の姿は、毎年決まった時期に見られるのであり、注目を集めた人々は、一連の脱出組のなかで最も最近の人々だということにすぎない[6]。バンコクのNGO「アラカンプロジェクト」の推計によれば、200811月以降に、成人男性と少年6000人以上が、数十隻の漁船を仕立ててビルマかバングラデシュを出航している。報道によれば、昨年の2倍のロヒンギャが、こうした死と隣り合わせの危険な航海に出ている[7]

最近の報道によって、東南アジア域内諸国の指導者たちは、ロヒンギャ問題を、過去のように無視するだけにはできないと認識した。そこで、ロヒンギャ「ボートピープル」問題を、20092月末にタイで開催された東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議の際に、非公式に議論すると発表することになった。地域的な解決が必要なことは明らかだった。しかしながら、首脳会議ではこれといった成果はあがらなかった。4月にインドネシアとオーストラリアの共催で開かれるバリプロセス(=人の密輸不正取引及び関連の国境を越える犯罪に関する地域閣僚会議)会合まで、解決を引き延ばすことが確認されたくらいだった。なおバリプロセスとは、2002年に両国が設立した多国間メカニズムで、域内の政府と人の密輸と不正取引に関する法執行機関の国際協力の強化を目的としている。

この4月のバリプロセス会合では、ロヒンギャ問題について真の解決策が模索されることはなく、ロヒンギャ問題は、公式議題の外に追いやられてしまった。唯一合意された行動といえば、今後の会議でロヒンギャの移動を議論するための特別作業部会を設置することだけだった。ここで、ビルマ政府代表団(団長=キンイェ准将警視総監)は、ロヒンギャはビルマの民族ではないと主張。オーストラリア、インドネシア、バングラデシュ各国外相はただちにビルマ政府を非難し、国外流出の原因となる過酷な処遇を行っていると指摘した[8]

今回、ASEANがこの問題に適切に取り組めなかったのは、ロヒンギャ問題に長年無関心だったことの反映にすぎない。こうした切迫感のなさからわかるのは、ロヒンギャを国家安全保障上の脅威だとするビルマや多くの近隣諸国の主張がでまかせだということだ。関係諸国にとっては、ロヒンギャは人の非正規な移動に関する比較的マイナーな問題にすぎないのだ。

UNHCRアジア地域コーディネーターのレイモンドホールは、こうした状況を次のようにまとめている。「最も基本的な諸権利を全体的かつ組織的に抑圧されている」という意味で「ロヒンギャが味わっている悲惨さは最悪すれすれだ。ロヒンギャ以外の人々がこういう状況に陥っても、多くの場合は帰る家がある。だがロヒンギャには自分たちを迎え入れてくれる場所がまったくない。ロヒンギャの人々はこの『ホーム』という感覚を持つことができない。これは本当に悲惨なことだ。」[9]

ビルマ国内でのロヒンギャの状況

ロヒンギャはビルマの民族だが、長年にわたって、国内での抑圧を避けるために、バングラデシュやタイ、マレーシア、インドネシアに向けて出国し続けている。ロヒンギャの総人口は約200万人。うちビルマ国内、主にアラカン(ヤカイン)州西部とラングーン(ヤンゴン)に留まっているのは約80万人だ。約20万人がバングラデシュで暮らし、そのうちの3万人が劣悪な状況にある難民キャンプで生活している。推計50万人が中東で、また5万人がマレーシアで移住労働者として生活しており、残りの人々は地域全体に分布している。日本に行ったり、はるばるオーストラリアまで船で渡ろうとしたりする人々もいる。ビルマ政府からビルマ国民として認められていないことが主な理由となり、ロヒンギャのほとんどは無国籍者となっている[10]

ビルマの劣悪な人権状況の中でも、ロヒンギャへの過酷な扱いは際立っている。ロヒンギャたちは、軍事政権の残虐な国家建設政策の矢面に、数十年にわたって立たされている。ロヒンギャのルーツは、アラカン人仏教徒、チッタンゴン地域のベンガル人、アラブ系交易商人が混ざり合ったものだ。ロヒンギャはベンガル語の方言を話すものの、バングラデシュ国境地帯で使われているベンガル語とは異なる。また都市部に住むロヒンギャの多くはビルマ語も話す。ロヒンギャはアラカン人仏教徒と何世紀にもわたって共存してきたが、その関係はイギリス植民地主義がインドとビルマの間に国境線をひき、分割したことで引き裂かれた。その結果、ロヒンギャは国境線によって分断され、その大半が1948年に独立した新生ビルマに住むことになった[11]

ムスリム少数者であるロヒンギャに対するビルマ政府の対応は、排斥、無視、スケープゴートという言葉でおおむね特徴づけることができる[12]1960年代に、ネウィン将軍の軍事独裁型社会主義政権は「ビルマ式社会主義」に則った国民化政策の一環として、数十万の南アジア系住民をビルマから追放。歴代軍事政権はロヒンギャに対して、特に過酷な迫害を行っており、その度合いは国内のどの民族的宗教的少数者に対するものよりも厳しいものだと思われる[13]

1978年、ビルマ軍は「ナガミン(竜王)作戦」と呼ばれる殺人的な「民族浄化」作戦を実施し、20万人以上のロヒンギャをバングラデシュ側に追放した。バングラデシュ当局の食糧支援停止がもたらした飢餓と疾病により、うち1万人が死亡するという悲惨な状況の下で、1年間生き延びた人々の大半が、その後ビルマに帰還した[14]

1983年、ビルマ政府は国勢調査を完了したが、ロヒンギャは対象とされていない。こうした排除によってロヒンギャは無国籍者となっている。1982年国籍法はこの措置を合法化するもので、そこでは国民を二つのカテゴリーにわけた。一つは完全な「国民」で、大半の民族集団がこれに該当する。もう一つは「準国民」で、南アジア系や中国系少数者がこれに該当する。政府はロヒンギャをこの二つのいずれにも該当しないとした。ロヒンギャは、1948年以前からビルマに対して「準国民」としての結びつきが存在していたとは証明できないというのがその理由だった[15]

1991年、ビルマ国軍がロヒンギャを再び排斥。これによって25万人以上のロヒンギャが、アラカン州からバングラデシュのテクナフとコックスバザールに逃れた。ビルマ国軍は数百人を殺害し、部隊は村落を破壊焼討ちして進軍し、人々を強制的に排除した。1995年、バングラデシュ政府は、国連が支援する帰還手続を通して、避難民の大半を国境のビルマ側へと強制的に送還した。その過程では、バングラデシュ治安部隊と、ロヒンギャを受入れる側のビルマ国軍部隊による殺人などの過度の実力行使が目立った[16]1995年、帰還者の一部には仮国民登録証(TRC)が与えられたが、これはアラカン州西部内での移動と雇用に関する限定的な権利しか認めないものだった。

この体験を生き延びたロヒンギャたちやアラカン州に残って暮らすロヒンギャたちの大部分は、UNHCRや国連食糧計画(WFP)などの国際人道機関に支えられてやっと生存が可能になっている状態だ。アラカン州西部の生活状況をはっきりと示すデータが、WFPがビルマで最近行った食糧安全保障に関する調査資料に存在する。これによれば、未成年の男女の半数以上が深刻な栄養失調で、ほとんどの家庭は援助以外に食糧を得る経路を持っていない[17]WFPのビルマ責任者クリスケイは「経済的な困難と慢性的な貧困のため、ラカイン(アラカン)州北部に住む多くの人々の食糧安全保障が確保できていない状況だ」と述べている[18]

ビルマ軍による人権侵害が、慢性的な貧困をさらに悪化させている。宗教迫害が各地で行われている。破壊されたり、退去を命じられたりするモスクも多い。超法規的処刑も珍しくない[19]。強制労働と財産の没収が日常的に行われている。ビルマ政府は、むきだしの暴力を用いて直接ロヒンギャを強引に追放するか、あるいは、ロヒンギャの排除を最終的な目標とした差別的な態度や対応を促すという政策をとっている。ロヒンギャは村落間を移動するときでも、そこに駐留する国軍部隊から許可を取得しなければならず、しかもその多くが不許可となる。こうした措置によって、雇用の機会、教育、商業活動が制限されている。

ロヒンギャ居住区の一部は、ビルマ軍政が建設した「モデル村」(通称「ナタラ」。事業を担当する辺境地域諸民族開発省の略称)の周辺部に強制的に設置されている。これによって、ビルマ国軍はロヒンギャを監視し、軍とつながりのある営利事業のために土地を没収することができる。現在までに100程度の村落がアラカン州北西部に建設されている。その大半には、ロヒンギャから没収した土地と財産を割り当てられたビルマ民族とアラカン民族が入植している。移動を余儀なくされたロヒンギャ住民は、このナタラプロジェクトの入植者の監視対象となることを義務付けられ、こうした村落の近くに住まなければならない場合が多い。また入植者によるロヒンギャへの人権侵害行為各地から報告されてい[20]

ビルマ軍政はロヒンギャの行動に様々な規制を加えており、特に成人女性と少女への影響が大きい。移動制限は教育や雇用を望む若い女性にとってとりわけ厄介なものになっている。生計を立てたり、教育を受けたりするために、外のビルマ社会と交わる機会や、国際援助機関と接触する機会が、この制限によって制約されているからだ。この10年余りの間、ビルマ当局はロヒンギャ女性の結婚に条件をつけており、たとえば現地の「ナサカ」(陸軍、警察、入国管理局や税関など複数の機関が構成する国境警備隊)から結婚の許可を取ることを義務付けている。このため強要や賄賂が行われ、手続きに大幅な遅れがみられるケースも多い。未婚で妊娠したロヒンギャ女性も当局から嫌がらせを受ける。2005年以降、ロヒンギャ夫婦の子どもは人までとするとの規定が結婚許可書に設けられた。ロヒンギャ女性は教師、看護師、行政職など公的機関への就職をたびたび拒否されている[21]

ビルマにおけるロヒンギャに対する国籍の権利の否定

アラカン州西部は他の地域から孤立し、開発から取り残されている。このため、出生が登録されているロヒンギャも、国籍を証明する書類を持っているロヒンギャもほとんどいない。この状況は現在も変わっていない。ロヒンギャがビルマ国籍を保持していない状況は現在も変わらない。ロヒンギャは公式には外国人で、非合法な集団とされる。また政府が認める135の「先住民族」には含まれていないため、大半の人々には国民登録証を持つ権利がない。こうした扱いを受ける一方で、ビルマから逃れ、送還されたロヒンギャは、不法出国を理由に投獄されることが多い。ビルマには厳格な家族管理制度があり、個人の動向を記録しているが、調査時に家を空けていれば、このファミリーリストから名前が削除されてしまい、法外な罰金を科せられて投獄されることも多い。

このようにロヒンギャが法的地位を欠いていることは、治安部隊による人権侵害行為の実態を覆い隠す役目を果たしている。治安部隊たちは、ロヒンギャに対して、特にビルマ西部でたびたび人権侵害を行なってきたが、ロヒンギャの法的地位の欠如を理由に、責任を問われずに不処罰のままに放置されている。同地域では治安部隊が地元住民に対する宣撫工作にかかわっている。

ビルマ軍政は、タイ、インドおよびインドネシア沿岸にロヒンギャが漂着した最近の一連の事件について、公式見解を出さなかった。しかし最終的には、ロヒンギャはビルマ国民でないので、この出来事はビルマとは関係がないとの発表を行い、今回の悲惨な出来事はバングラデシュ人だけにかかわるものだという虚偽の印象を与えている。また2月のASEAN首脳会談でビルマ軍政は、ビルマで生まれたと証明できる「ベンガル人」なら誰でも受け入れると述べた[22]。ビルマ国籍を証明するために必要な書類をロヒンギャに発給していないのは、他でもないビルマ政府であることを考えれば、こうした見解は不誠実なものだ[23]

ロヒンギャに対する差別は、ビルマ国民全体に受け入れられているとはいわないものの、ビルマに深く根ざしている[24]。ロヒンギャの法的地位を認めないビルマ軍政の姿勢は、アラカン民族やそれ以外の民族の間から、また反政府勢力や国外の亡命組織の一部から根強く公然と支持されている。多民族間の亡命団体の運動や会合から多くのロヒンギャ団体が排除されている[25]。アラカン人仏教徒は何世紀にもわたってロヒンギャの隣人だったが、彼らの中にはロヒンギャの存在自体を認めず、ビルマに居住するベンガル人だと主張する人々もいる。

ロヒンギャが長期にわたって置かれている法的な無権利状態と、ロヒンギャには社会の完全な成員としての資格を与えるべきではないとする見方は、あからさまな人種主義と結合することもある。ビルマでは、南アジア系の人々を指す「カラー」(外国人の意)という侮蔑的な表現があるが、ロヒンギャはこれよりもさらに見下された扱いを受けることが多い。この事実がはっきりと見て取れる最近の事例は、20092月に、イエミンアウン在香港ビルマ総領事が他国の領事たちに宛てた書簡の内容だ。

〔......〕実際、ロヒンギャは「ミャンマー国民」でもなく、ミャンマーに住む民族集団でもないのです。写真をご覧になれば、彼らの皮膚の色が「薄黒い」のがお分かりかと存じます。ミャンマー人の皮膚の色は白く透き通っていて、見た目にも美しいのです。〔......〕彼らは鬼のように醜いのです[26]

ロヒンギャを外国人とするビルマ政府の見解は、ロヒンギャは非国民で、ビルマの国家安全保障の重大な脅威だという根拠薄弱な主張という形を取ることもある。当局者はこうした恐怖感をたびたび煽るが、実際の歴史では事情はまったく別だ。ビルマ独立以来、ロヒンギャの大半は平穏な生活を送っており、他のビルマ国民と同等の権利を享受してきた。武装闘争を行った人々も確かにいたが、ビルマの国家としての一体性を深刻に脅かす存在になったことは一度もない。アラカン州では1950年代にムジャヒディン蜂起が短期間発生したが、ロヒンギャからの広い支持を得ることなく失敗に終わった。ロヒンギャによる現在の武装抵抗は、政治組織間や武装抵抗組織間で分裂があり、細かい論争が続いているために、小規模にとどまり、軍事的脅威になっていない。テロリストになるために中東に渡ったとされる少数のロヒンギャ男性はいるものの、いわゆるイスラム急進主義的な陰謀を携えて帰国したわけではないことははっきりしている。ビルマではムスリムが関与したテロ事件は一度も起きていない[27]

1990年代初頭以降、ビルマ西部では劇的な勢いで軍事化が進行している。陸軍の大隊の数は3大隊から43大隊に増強されており、国内で最も高い伸びを見せている[28]。国軍は、部隊の駐留を維持するために現地住民を働かせ、食糧を盗み、土地を占有しているほか、非戦闘員に駐屯地建設や道路掘削、物資運搬を強要している。

軍事的プレゼンスが増大する背景には、大規模なインフラ整備事業を警備する必要性が存在している。200812月、中国の国営エネルギー企業中国石油天然気集団公司(ペトロチャイナ)は、ビルマ政府と、アラカン州西部の沖合にあるシュエガス田からの天然ガス購入のための30年のリース契約を結んだ。この共同事業体にはインド、タイ、韓国、中国、ビルマの企業が参加している。天然ガスはこのパイプラインでビルマから中国雲南省に輸送され、平行するもう一つのパイプラインでは中東産原油が輸送されることになっている。ロヒンギャ住民の大半は、このルートの北西に住んでいるものの、駐屯する兵士の数が増加することで、元々悲惨な暮らしがさらに悪化している[29]

タイ政府の責任と誤った抑止政策

タイ当局による、ロヒンギャ移住者と庇護希望者に対する最近の虐待事件は、残念ながら、過去の政策を継承したものだ。タイ南部に上陸するロヒンギャの数が増え続けている事態に対し、タイ政府は、抑止政策を取ることになった。この抑止政策は、タイ政府に課せられた庇護希望者に対する国際法上の義務に違反する。2007年、タイ当局は、タイ南部のラーノン近くでロヒンギャ数百人を拘束し、タイビルマ国境の街メーソットの北のはずれにある収容施設に移送した。その後すぐに、80人以上の被拘束者が親軍政の民兵組織民主カイン仏教徒軍(DKBA)の支配地域に強制送還された[30]DKBAは麻薬密輸、違法伐採、移住労働者への強要に関与していることで悪名高い組織だ。送還されなかった人の大半は、ビルマに密入国して自宅に戻るほどの金銭的余裕がなかった。多くはタイ国内にバラバラに引き返しており、一部は、最終的にマレーシアに人身取引されていった。

タイ政府は、ロヒンギャが国家安全保障への脅威だと主張する。タイの軍高官らはロヒンギャは移住労働者のふりをしたムスリム傭兵で、タイ南部のムスリム分離主義派のゲリラに志願するためタイに来たのだと繰り返し非難する。スポット海軍中将は2007年に記者団に次のように話した。当局は「ロヒンギャと呼ばれるビルマ人ムスリムの集団の動向を引き続き注視している。〔......〕彼らはまともな仕事をしに来たのではなく、〔タイ南部の〕3県で活動する反政府勢力の支援だけが目的なのだ。〔......〕こうしたロヒンギャの傭兵は、20歳から40歳くらいまでで、暴力に手を染めた過去があり、金のためならどんな命令もいとわず実行する。」[31]

人身売買や物品の密輸に関わるネットワークの一部は、バングラデシュのコックスバザールからの武器密輸に関与している。とはいえロヒンギャがタイ国内での暴力的な紛争に関わったとされた事件や、タイ南部の最奥部で戦闘している分離主義者の武装集団との関係がとりざたされた事件も一切ない[32]

2008年初め、当時のサマック首相は、ロヒンギャを「無人島」に抑留するとすごんだ[33]12月末にタイ治安部隊は、拘束したロヒンギャを本土から遠く離れたサイデーン(赤砂)島に連行し、洋上に追い返すまでの一時収容施設とした。

2009年初めに行われたロヒンギャ取締作戦の責任者は、国内保安作戦司令部本部(ISOC)のマナス陸軍大佐だった。同大佐は、20044月のクルセーモスクでのタイムスリム虐殺事件の関係者として、5年前のタイの裁判所の調査結果に名前が挙がっている人物だ。マナス大佐は、自らの部隊によるロヒンギャの処遇について何ら謝罪的な見解は示さず、自分の部隊は粗暴な手段は一切用いておらずタイ政府のやり方は国際的な人道措置に合致していると主張した。また『バンコクポスト』の取材に対して「この問題が大騒ぎになったのは、国軍を中傷し、タイを悪く言う記者のせいだ」とコメントした[34]。アピシット首相は調査をすると発表。しかし、移住者や庇護希望者に対する人権侵害について行なわれたこれまでの調査の例を見る限り、当局側の責任者が処罰される見込みはほとんどないといえるだろう。

マレーシアは仕事を探すロヒンギャ男性に人気の土地だ。クアラルンプール市とペナン市にはビルマ出身の人びとが多く住んでいるが、その中でロヒンギャのコミュニティーも拡大している。しかし難民、庇護希望者、移住労働者は総じて不安定な生活を送っており、マレーシア警察と、恣意的拘束や暴行脅迫で悪名高い自警団(Ikatan Relawan Rakyat Malaysia、通称「レラ」)とを怖れている。[35]

インドネシアでは、スマトラ沖のプラオウェイ島に上陸した約400人のロヒンギャが、当初は当局から強制送還されると脅されていたが、一時的に滞在することができるようになった。

バングラデシュのロヒンギャ難民キャンプの状況は、この2年間でわずかに好転した。しかし生活水準は相当に劣悪なままで、第三国定住の可能性も限られている。その他にも、数千人のロヒンギャが、バングラデシュ沿岸やビルマ国境付近でかろうじて生き延びている。そうした人びとに選択肢らしい選択肢はない。本国への帰還は危険すぎて不可能だし、バングラデシュ政府は彼らの難民登録や基本的な支援の提供を拒んでいて、援助はほとんど期待できないからだ。国境なき医師団(MSF)は、長年にわたってバングラデシュでロヒンギャ支援を行っている非政府組織の一つだ。MSFは次のように指摘する。「彼らには選択肢がそもそも存在しない。本国に帰還して投獄されるか、自らの存在を認めない国の不毛な土地の片隅に定住するかを選べというのは無理な話だ。」[36]

20094月のバリプロセス会合で、ビルマ政府側の非協力的な態度に接したバングラデシュのディプモニ外相は、ロヒンギャがビルマ出身者ではないとの主張に反論した。

〔......〕ロヒンギャは何世紀もミャンマー〔ビルマ〕に住んでいる。過去にはミャンマー政府の要職に就くロヒンギャもいた。国民のリストから名前を削除したので、彼らはもうミャンマーの一民族でないなどという主張が成り立つわけがない。過去に数十万人規模でロヒンギャが帰還していること、またロヒンギャ28000人の送還リストをミャンマー側が受け入れていることからも、彼らが実際にミャンマー国民の一部であることははっきりしている。バングラデシュは少ない資源の中で、ミャンマーからの難民に対して、これまで30年以上必要以上のことを行ってきた。ミャンマー政府は今すぐに自国民を引き取るべきだ[37]

船に乗っている男性全員が抑圧から逃れてきたロヒンギャなのではない。マレーシアで働くために紛れ込んだバングラデシュのチッタゴン地方出身のベンガル人もいる。ロヒンギャにとってもベンガル人にとっても、その旅費は極めて高額だ。ビルマやバングラデシュからタイ南部の海岸までの移動には300ドル(3万円)の費用がかかり、密入国費として別に500~700ドル(57万円)の費用が後から請求される。ビルマ人の平均年収は300ドル(3万円)を下回っている上に、ほとんどのロヒンギャの収入はそれよりもはるかに低い。ロヒンギャがこのような高額の費用をすすんで負担するのは、一刻も早くビルマを脱出したいという彼らの心情表れに他ならない。そのことはまた、諸外国政府が、UNHCRに対し、自国内に入ってきたロヒンギャへのアクセスを許すべきであること、そして、UNHCRが庇護希望者あるいは難民に該当するかの審査を行う間ロヒンギャを保護すべきという主張を補強するものだ。

近隣諸国がとるべき方策

メディアはこれまでロヒンギャを「忘れられた民族」と呼んできた。こうした言い方はもはや止めるべきだ。ロヒンギャはその存在を否認されている民族なのだ。ロヒンギャがひどい状態に置かれていることは世界的によく知られている。しかし、先進諸国に特定の支援国がなく、戦略的に重視されていない地域の出身であるために、どこもロヒンギャを引き受けようとはしないというのが実態だ。域内諸国や先進諸国は、20年以上にわたって報告され続けてきたロヒンギャの窮状を直視すべきだ[38]。国際社会は、ロヒンギャに対する恐ろしい出来事が積み重ねられ、迫害が行なわれていることをよく理解している。しかし、それに極力触れないでおこうとしてきた。

ロヒンギャの権利尊重を確保する一義的な責任はビルマにある。だが同時に、東南アジア諸国には難民、庇護希望者、移住労働者および無国籍者の処遇を定めた国際法の諸規定を順守する義務がある。1951年の難民条約と1967年の難民議定書、1954年と1961年の無国籍条約、2000年の移住労働者条約を、まずは、批准し、履行することから始めることを提案したい[39]ASEAN諸国がロヒンギャがビルマから大量脱出する大元の原因を放置する限り、ロヒンギャの脱出は続くだろう。国連と関係諸国は、ビルマとASEAN諸国、バングラデシュに対し、ロヒンギャを人道的に扱うよう強く働きかけるべきだ。先進諸国は人道援助の拡大を提案し、当該地域の比較的貧しい政府が、ロヒンギャへの基礎的なニーズを提供するコストを負担しないですむようにすべきだ。また難民としての第三国再定住する際の抽選でロヒンギャを公平に扱うべきだ。

政策提言/勧告

アントニオグテーレス難民高等弁務官による37日から12日のビルマ訪問を受けて、「ラカイン(アラカン)州北部の現在の活動レベルが実際のニーズに合致しておらず、事業の改善をただちに行うための決定がなされた」ことが合意された。この新たなプログラムは、アラカン州北西部のロヒンギャ帰還民と現地住民を支援することを目的とし、特に保健、教育、水、衛生、農業およびインフラ整備に重点を置いている[40]。オーストラリア政府は、ビルマ国内のロヒンギャに対して320万ドルの支援を約束した。

これは重要な第一歩だ。しかし主要な責任はビルマ軍政にある。大きな前進がもたらされるためには、ビルマ政府がロヒンギャへの迫害を停止する必要がある。

ビルマ政府が政策とその実務を変更することは、ロヒンギャの大量流出を抑制し、アンダマン海を渡る危険な航海(洋上では嵐、食糧や水の不足に苦しめられ、人身売買業者の被害に遭っている)を終わらせるための鍵である。だが他方で、ビルマ以外の各国も難民、庇護希望者、移住労働者および無国籍者の処遇を定めた国際法の規定を順守する必要がある。ヒューマンライツウォッチは特に以下の勧告を行う。

ビルマ政府に対して

  • 出生、居住または血統など、他民族と同様のビルマとの真正かつ実効的なつながりの基準に基づき、ロヒンギャ民族に属する人びとを、即座に国民として認定するか、あるいは、国籍を付与すること。そして、国際法およびビルマ国内法に基づき、ロヒンギャを国民として平等に扱うこと
  • ロヒンギャに対し、ビルマ全土での移動の自由を保証すること
  • 他のビルマ国民と同様に、ロヒンギャも、身分証明書を入手できるようにすること
  • ビルマに帰還したロヒンギャをファミリーリストに再登録すること
  • 国際連合と国際人道機関に対し、ロヒンギャに必要とされる人道支援のためのアラカン州へのアクセスを許可すること。特に、食糧安全保障と生計の確立にかかわる問題に対処できるようにすること。
  • 国際メディアと人権機関に対し、ロヒンギャの人権状況を報道するため、アラカン州へのアクセスを許可すること

タイ政府、バングラデシュ政府、マレーシア政府、インド政府、インドネシア政府およびロヒンギャ庇護希望者が上陸している各国政府に対して

  • ロヒンギャに対する人権侵害を終わらせ、ロヒンギャがビルマ国民たる十全な権利を享受できるように、ビルマ政府に強く働きかけること
  • 自国の領海内で発見されたロヒンギャのボートピープルなどを、公海上へ追い返さないこと
  • ロヒンギャをビルマへ強制送還しないこと。ビルマへの帰還はすべて自発的なものであるべきだ。帰還の意思を持たない、または帰還することができないロヒンギャ全員に対し、少なくとも一時的な庇護を与えること。現地社会への統合の見込みも帰還の見込みもない者については第三国定住を考慮すること
  • UNHCRと人道機関に対し、ロヒンギャの緊急ニーズを満たすために必要な、完全なアクセスを与えること
  • UNHCRに対し、拘束中のロヒンギャへの面会を許可するとともに、適切な難民認定手続を行うことを許可すること
  • 1951年の難民条約および1967年の難民議定書、1954年と1961年の無国籍条約、および2000年の移住労働者条約を批准し、履行すること
  • 国際的な難民の定義を国内法に組み込みむこと。そして、難民申請を行なう適正な機会を保証するとともに、難民申請手続中の庇護希望者の保護を定めている国際基準に合致した庇護手続を導入すること。居住、証明書および就労の権利を与えること
  • ビルマ人が自身の送還の根拠に対して異議申出をできる国内の庇護手続が欠如している場合は、UNHCRが当該ロヒンギャたちについて庇護希望者か難民かを決定する審査の機会を与えられることなしに、ビルマ人を送還することがないようにすること
  • 難民に合法的な滞在資格を与えるメカニズムを整備すること

米国、EU、オーストラリア、日本および他の関係諸国に対して

  • ロヒンギャに対する虐待を終わらせ、彼らがビルマ国民たる十全な権利を享受できるように、ビルマ政府に強く働きかけること
  • ビルマの近隣諸国に対し、自国領内に到達したロヒンギャを人道的に処遇するよう強く働きかけること。そして、UNHCRなどの人道機関がロヒンギャにアクセスすることを許可するよう、強く働きかけること
  • ビルマ近隣諸国の比較的貧しい政府への人道援助を拡大し、そうした国々がロヒンギャへの基礎的なニーズを提供する上でコストを負担しないようにすること
  • ロヒンギャに対し、難民として再定住(第三国定住)する平等な機会を与えること

 

 

謝辞

本報告はヒューマンライツウォッチのアジア局の調査員デイビッドマティソンが作成し、アジア局長のブラッドアダムズ、アジア局局長代理のエレインピアソン、法律政策局長のジェームスロス、プログラムオフィス局長代理ジョセフサンダースが編集した。また、難民プログラムディレクターのビルフレリックが専門的レビューを行なった。そのほか、製作に、アジア局コンサルタントのドミニクチャンブレス、出版ディレクターのグレースチョイ、写真編集者のアナロプリオール、製本部長のフィッツロイヘプキンスがかかわった。なお、本報告書の異なる版は『グローバルアジア』(第4巻第1号=2009年春号、86-91頁)に収録されている。