要約
日本における法律上の性別認定手続(戸籍記載変更手続)は時代に逆行する内容で、有害である。同手続は、トランスジェンダーというアイデンティティを精神医学的状態と捉える時代後れで侮辱的な考え方に基づいており、法律上の性別認定(戸籍記載変更)を求めるトランスジェンダーの人びとに対して、長期・高額で、侵襲的かつ不可逆的な医療処置を要求している。戸籍記載変更手続に関する法律である「性同一性障害者特例法」は、国際人権法と国際的な医学上のベスト・プラクティスに反するものだ。確かに、トランスジェンダーの人びとのうち「性同一性障害」(GID)と診断された上で同法が定める医療処置を望む人びともいるが、多くはそれを望んでいない---そしてそれを求められるべきでもない。
「トランスジェンダー」とは、出生時に割り当てられた性別が自らの実感や周りが考えるジェンダーと一致しない人を包含的に指す言葉だ。この語は、出生証明で割り当てられた「女」または「男」の割り当てが、自らが最もしっくりと表現できるジェンダー、または選べるならばそう表現したいジェンダーとは一致しない人びとを指している。
ヒューマン・ライツ・ウォッチは、日本のトランスジェンダーの人びとに対してインタビュー調査を行った。人びとは厳格な男女二項図式を核として設計された杓子定規な学校制度に馴染むこと、職場を探して実際に就職すること、医療サービス関係者と関わること、そして基本的権利に従って家族を養育することをめぐって苦闘する経験を語ってくれた。トランスジェンダーの人びとが法律上の性別の変更を可能にする法律が日本に存在することは、日本政府にトランスジェンダーの人びとと関わり、支援する意志があることの先触れではある。しかし日本政府には、法律上の性別認定制度の問題点に対処し、これを根本から見直す必要がある。というのは、現行法上の性別認定制度が国際基準を満たしておらず、世界で大きな批判と不信にさらされている制度であるからだ。トランスジェンダーの人びとが、自らの性自認(ジェンダー・アイデンティティ)を法律上認定して欲しいと望む場合、未成年の子がいないこととする要件は、トランスジェンダーの人びとがもつ、私生活と家庭生活の尊重を受ける権利を侵害するものだ。外科的介入の義務づけは強要に該当する。さらに法律上の性別認定を受けられること(戸籍記載を変更できること)は、プライバシー権、表現の自由、雇用・教育・健康・移動の自由に関わる諸権利などの基本的権利のために欠くことができない要素の一つである。
本報告書用のインタビュー調査に応じてくれた人びとは、性同一性障害者特例法自体が自らの自尊心そして社会からの受容を阻害している実態についても語ってくれた。ある人は「人としての尊厳を傷つける制度であることは間違いないです」と指摘した。また別のトランスジェンダー男性は同法の要件について、「日本は、少しでも例外があると冷たくされるので、それかなと思います」と述べた。そして法律がトランスジェンダーの人びとを排除するよう設計されていて、「〔日本社会の〕例外を出さない、全員同じ、一律前を向いていきたい」という意図で作られたと感じていると話す。
日本政府と2019年の最高裁判所判例を含む裁判所判例は近年も、トランスジェンダーの人びとの権利について検討する際、侮辱的な神話やステレオタイプを繰り返し用いている。たとえば、政府や最高裁判所はトランスジェンダー男性が妊娠することなどの懸念を表明し「社会に混乱を生じさせかねない」ことなどを法律上の断種要件正当化の根拠としている。
性同一性障害者特例法は2003年に成立し、2004年に施行された。当時にしてみれば、同法が特別だったわけではない。この時期に成立した世界各地の法制度にも、日本と同じような差別的で人権侵害的な条項が含まれている。しかし様々な立法府や裁判所、地域的人権裁判所や地域機関は近年、こうした要件が人権法に反するとの判断を示している。同様に医療専門家の組織も各国政府に対し、法律上の性別認定手続から医療要件を削除するよう求めている。直近では、世界保健機関(WHO)が新たな国際疾病分類を発表し、「性同一性障害」を「精神障害」のセクションから除外した。2012年にアメリカ心理学会が「性同一性障害」について行ったのと類似の対応だ。こうした進展は国際人権基準とともに、日本に対して自国の法律を改正する行程表を提示していると言える。
法律上の性別認定(戸籍記載変更)への権利を得ることは、トランスジェンダーの人びとが周縁化された生活から抜け出し、社会的な平等と尊厳のある生活を営むために欠かせない。自らのジェンダーがどう表現され、登録されるかを決める権限を人びとに与える方向への動きは、ますます大きなものとなっている。法律は人びとに対し、自らのあり方を反映していないアイデンティティ表記をもつことを強制すべきではない。またトランスジェンダーの人びとに対し、性別認定を得るために、あるいは性別認定に伴ういかなる権利を得るためにも、望まない医療処置を受けるよう強制すべきではない。
日本政府は直ちに現行法を再検討し、国際人権基準と医学上のベスト・プラクティスに沿った法改正を行い、トランスジェンダーの人びとが、透明かつ迅速な行政手続で自らの法律上の性別を変更できるようにすべきである。
提言
日本政府は、性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)と性自認(ジェンダー・アイデンティティ)に関する国連独立専門家が2018年の国連総会で行った演説において示した提言を実現するため、省庁横断的な取組みを緊急に行うべきである。同独立専門家は、性またはジェンダーを法的に変更(戸籍記載変更)する際の人権を侵害する必須要件を撤廃するよう求めた。具体的には以下の要件である。
- 強制・強要された、または非自発的な断種
- 手術やホルモン療法など性別移行に関連する医療処置
- 医学的診断、心理学的鑑定、またはその他の医学的あるいは心理社会学的処置または療法
- 経済的地位、健康、婚姻、家族あるいは親としての地位に関連する要件
- 第三者による見解のすべて
法務省への提言
- 性同一性障害者特例法(平成15年法111号)を改正し、同法を国際人権基準及び医学上のベスト・プラクティスの基準に沿った内容にし、戸籍上の性別表記について、いかなる医学的条件の充足も必須とされることなく変更可能とすること。特に、性別適合手術と不可逆的な不妊という現在の要件、ならびに請求人に未成年者の子がいないとする要件を撤廃すること。
- トランスジェンダーの人びとの性自認の法律上の認定(戸籍記載変更)を、生活のあらゆる側面に適用されるようにすること。
- トランスジェンダーの子どもまたは若者には、成人年齢(現行法では20歳、2022年4月1日より18歳)に達する前に、法律上の性別変更を行うことが最善の利益である場合があることを認め、トランスジェンダーの子どもについて自らのジェンダーが法律上認定される可能性を排除しないようにすること。トランスジェンダーの子どもの請求の審理においては、申請したトランスジェンダーの子ども自身が、法律上の性別変更の必要性について意見を述べる仕組みを設けるとともに、子どもの自由な意見表明にはしかるべき重要性が与えられるべきだ。子どもの権利条約の下で日本が負う義務に従い、この手続は、子どもは成長し能力を獲得するにつれて、自らに影響する事柄の規制についてより重い責任を負う権利をもつことに基づき設計されるべきである。
- 改正後の法的性別認定法では、トランスジェンダーの人びとが自ら宣言する性自認に従って法律上認められるための条件として、独身であることを要求しないこと。
外務省への提言
- 性的指向と性自認に関する国連独立専門家を日本に招き、トランスジェンダーの人びと、サービス提供者、政府担当者などとの会合を行うこと。
厚生労働省への提言
- 緊急に、世界保健機関(WHO)で新設された「性別不合 (gender incongruence)」のカテゴリーを採用すると公式に発表し、法務省と連携して、性同一性障害者特例法がWHOの国際疾病分類第11版に沿って改正されるようにすること 。
- 法務省と協力し、性同一性障害者特例法改正のプロセスに着手し、性自認の自己申告にもとづいて、行政行為として法律上の性別を認定する手続を整備すること。
- トランスジェンダーの人びとが、必要とする医療的かつ心理学的な支援及びサポートを利用できるようにするとともに、そうした支援やサポートが合理的な期間内に各個人が利用できるようにすること。
- トランスジェンダーの人びとと協議の上、トランスジェンダーの人びとの性別移行に関わるすべての医療介入が健康保険の適用対象となるようにすること。
- 心理学者、精神科医ならびに総合診療医などの医療専門家、またソーシャル・ワーカーについて、トランスジェンダーの人びとに特有のニーズと権利、その尊厳の尊重の必要性に関する研修を受講できるようにすること。
調査方法
ヒューマン・ライツ・ウォッチは本報告書のための調査を2015年8月から12月まで、また追加調査を2018年7月から11月まで、日本全国14都道府県で実施した。この間に、ヒューマン・ライツ・ウォッチは日本における法律上の性別認定について国連特別手続に働きかけ、日本政府からの回答を得た。法律とその運用は、最初のインタビューを実施した2015年から変わっていない。したがってインタビューが提示する事実は、現在も現行法の分析に関連性を有している。
調査員はトランスジェンダーの人びと48人のほか、弁護士、医療関係者、学者にインタビューを行った。
ヒューマン・ライツ・ウォッチの調査員は、調査目的及びインタビュー回答者の証言の本報告書や関連資料での使用方法について、事前に日本語で説明を行ってインタビュー回答者全員から承諾を得ている。インタビュー対象者はインタビューをどの時点でも中断することができ、また答えたくない質問には答えなくてよいとの説明を受けている。
アンケート回答者や対面インタビュー回答者に金銭的報酬は一切支払っていない。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、インタビュー回答者が安全で秘密が保たれる場所で調査員と面会するために利用した公共交通機関の旅費を支払った。インタビューは日本語または、日本語・英語の逐次通訳により実施された。すべてのインタビューは個別に、1回1人ずつ実施している。
本報告書では、実名使用を強く望んだ場合を除き、トランスジェンダーの人びとのインタビュー回答者についてはすべて仮名を用いている。
ヒューマン・ライツ・ウォッチは、国連人権高等弁務官事務所特別手続部に働きかけた。私たちの申立を受けて、国連専門家2人が政府に書簡を送付した。書簡と日本政府からの回答については本報告書で分析している。
ヒューマン・ライツ・ウォッチは2018年10月に法務省宛に書簡を送り、調査結果と準備段階の提案も共有した。
I. 性自認と法律上の性別認定 (戸籍記載変更)
「トランスジェンダー」とは、出生時に割り当てられた性別が自らの実感や周りが考えるジェンダーと不一致な人を包含的に指す言葉だ。この語は、出生証明書で割り当てられた「女」または「男」の割り当てが、自らが最もしっくりと表現できるジェンダー、または選べるならばそう表現したいジェンダーとは一致しない人びとを指している。
だれもが性自認(ジェンダー・アイデンティティ)を持っている。たいていの場合、出生証明書で割り当てられた性別に沿って、女性か男性と自認する。しかし、出生時に割り当てられた性別とは異なるジェンダーを自認することもあれば、男女両方を自認するか、どちらも自認しない場合もある。もし出生時に「女性」と分類されたものの、自認が男性であれば、その人はトランスジェンダー男性(トランス男性)である。もし出生時に「男性」と分類されたが、自認が女性であれば、その人はトランスジェンダー女性(トランス女性)である。日本ではXジェンダーというアイデンティ用語が用いられる場合もある。これは英語で言う「ノンバイナリー(non-binary)」や「ジェンダークィア(genderqueer)」におおむね対応し、男性でもなければ女性でもないというニュートラルな自認を指す。「シスジェンダー」(=非トランスジェンダー)の語は、男性であれ女性であれ、出生時に割り当てられた性別と同じジェンダーを自認する人びとを指す。
歴史を振り返ると、世界保健機関(WHO)が支持するものも含め、多くの医療制度がトランスジェンダーをメンタルヘルス(精神保健)の問題に分類してきた。しかし事情は大きく変わってきており、本報告書が後で取り上げるようにWHOも国際疾病分類をアップデートしてきている。
医療専門家と心理専門家のあいだには広範なコンセンサスがあり、それは世界のトランスジェンダーのコミュニティの見解と一致する。出生時の割り当てとは異なるジェンダーを経験することは障害でも疾病もなく、人間の実感の自然なバリエーションのひとつである、というものだ[1]。
日本でもその他の国でもトランスジェンダーの人びとは、他の人と同じようにメンタルヘルスの問題を経験している。研究結果によれば、メンタルヘルスの問題には、トランスジェンダーの人びとの経験率が高いものもあるとされる。トランスジェンダーの人びとは、ジェンダーに不一致であることにより引き起こされるスティグマや差別、いじめ、嫌がらせによってメンタルヘルスの問題を抱える。こうした状態は治療のために診断を必要とすることもあるが、性自認の実感そのものとは別のことである。
トランスジェンダーの人びとは、本報告が用いる意味での精神医学的な状態の一類型を経験しているのではない。出生時に割り当てられた性とは異なるジェンダーとしてのアイデンティティを深く実感しているのである。自らの身体を物理的に変更する手段、たとえばホルモン補充療法(HRT)や性別適合手術(SRS)を行う人もいれば、行わない人もいる。性別移行や関連する不安についてメンタルヘルスケアを必要とすることもあれば、必要としないこともある。
性自認と性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)は異なる。シスジェンダーの人びとのように、トランスジェンダーの人びともヘテロセクシュアル、ホモセクシュアル、バイセクシュアル、またはアセクシュアルでありうる。トランスジェンダーの人びとは、他の人びと同様、自分以外のあらゆるジェンダーの人びとと関係を築くことができる。
トランスジェンダーの人びとの法的な認定と保護に関する国内法には近年変化が生じているが、多くの国が未だに、日本のように、時代後れの差別的で強制的な政策を実施している[2]。本報告書が詳しく記すように、不可逆的な結果を伴う医療処置を義務づけ、性自認を「精神疾患」と理解する、日本のような法的性別認定手続は、国際人権法に抵触する。そして、法律上の性別変更手続(戸籍記載変更手続)にあたって最低年齢を定め、親としての地位、婚姻関係を条件に含めることは差別である。
こうした法律を改正し、トランスジェンダーの人びとが自己申告する法律上の性別認定を得る権利を尊重することは人権上必須だ。WHOが定める国際的な診断基準が近く改定されることも踏まえ日本政府には、法的性別認定制度を現代医学に沿ったものとすることが求められている。以下に詳しく述べるように、自らのジェンダーの表現及び登録の決定権限を本人に与えるという方向に、世界は大きくそして明らかに動いている。法律はトランスジェンダーの人びとに対し、自らを反映しないアイデンティティの表記を強制すべきではない。またトランスジェンダーの人びとに対し、性別認定(戸籍記載変更)を得るために、あるいは関連するいかなる権利を得るためにも、望まない医療処置を強制すべきではない。また性自認を、医療診断の必要な状態と捉えてもならない。
日本の法律上の性別認定制度(戸籍記載変更制度)
日本における法的性別認定は、性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(平成15年法律第111号。「性同一性障害者特例法」)にしたがって行われている。同法は2004年7月16日に施行された[3]。
同法は自らにふさわしいジェンダーの法的な認定を請求するすべてのトランスジェンダーの人に「性同一性障害」(GID)の診断を条件として課す。「性同一性障害者」は同法において次のように定義されている。
生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれとは別の性別であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を有する者[4]
そのプロセスにおいて、「その診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致している」ことが求められる[5]。
法的性別認定(性別の取扱いの変更)の審判を行うのは家庭裁判所である。請求人は、性同一性障害の診断書を提出するほか、次の要件を満たさなければならない。
- 20歳以上であること
- 現に婚姻をしていないこと
- 現に未成年の子がいないこと
- 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること
- その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること[6]
性同一性障害者特例法は、法律上の性別認定手続を日本で初めて定めた法律であり、その成立は、日本政府のセクシュアル・マイノリティ及びジェンダー・マイノリティに対する取扱いにおいて、極めて重要な出来事であった[7]。しかし、同法で定められた手続は、出生時に割り当てられた性別とは異なるジェンダーとして法律上取り扱われたいと希望する日本人の権利を侵害する内容である。
米国精神医学会が1980年に『精神疾患の分類と診断の手引 第3版』(DSM-III)を刊行した際、日本の精神科医は翻訳に着手した。人類学者の中村かれんは「DSMで一貫して用いられているdisorderの語にどのような日本語を当てるべきかについての議論」があったと指摘する。「病」「症」「障害」が有力候補だった[8]。「障害」はdisorderやdisabilityと翻訳できる。1982年にDSM-IIIの日本語版が公開されるとき、トランスジェンダーの権利を擁護する人びとが望んだ曖昧さをもつ語だった。中村はこう記す。
難しさの一端は、日本の医学用語がimpairment、injury、disorder、disturbance、pathology、disabilityといった言葉を「障害」とも訳し、それぞれを必ずしも区別しないことにある。いずれにしても、DSM-IIIのgender-identity-disorderという分類名が「性同一性障害」とされ、日本のトランスセクシュアルはこの不明瞭に喜んだのである[9]。
性同一性障害(GID)という概念が日本の医療と社会に導入されたことで、トランスジェンダーの人びとが自らのアイデンティティについて話し、開示し、さまざまなサービスを利用するための説明枠組が提供された。性同一性障害診断は関連する法的枠組みが作られていく際の土台ともなり、性同一性障害者特例法に結実した。出生時に割り当てられた性別と一致しない性自認の実感を法律で認定することには個人の自由を認める面がある一方、法律そのものは国際人権法及び医学上のベスト・プラクティスと相容れないものだ。
性同一性障害者特例法は、ある集団が存在することを認め、その人びとの法律上の認定を可能にする反面、日本のトランスジェンダーの人びとにとって越えがたい壁となっている。性同一性障害の診断を得るという要件は非科学的であり、結婚しておらずかつ未成年の子がいないという要件は差別的である。また不妊にさせる手術を要件とすることは強制的な断種に該当する。法学者の谷口洋幸は2013年の論文において、「特例法は、医療上の必要性がない場合にも外科的介入を要件とすることで、社会的文脈のみならず、身体的なレベルにおいても性別二元制を堅持した」と述べている[10]。
こうした要件すべてまたは一部を性別移行の一環として履行することを望むトランスジェンダーの人びとも実際に存在する。しかし、すべてのトランスジェンダーの人びとへの義務化は国際法に反し、トランスジェンダーの人びとの基本的権利を侵害する。法が定める要件は国際的な医療・診断基準にも逆行している。本報告書で検討するように、主要な国際医療診断制度のいずれもが「性同一性障害」や「性転換症(トランスセクシュアリズム)」を精神疾患と位置づけていない現在、トランスジェンダーの人びとに診断を得ることを法律で義務づける日本のやり方は強要に該当する。
この変化は、個人に小さくない影響を及ぼしうる。都内に住むトランスジェンダー女性はヒューマン・ライツ・ウォッチにこう述べた。
私は、性別不合は精神疾患ではないと思います。でも、自分に精神疾患があると認めることでジェンダー・アイデンティティを受け入れてもらっている人はたくさんいます。もしジェンダーに不一致なことがもう精神疾患ではないのなら、自分が誰なのかをうまく説明する方法がなくなってしまうのではないかと感じる人もいるでしょう[11]。
大阪の精神科医で、トランスジェンダーの患者を診る康純氏は指摘する。
日本では病院やクリニックに受診して診断を元に治療を受けるという医療モデルが広まることによって社会的な認知が広がってきたという経緯があります。医療モデルを否定すると、趣味や嗜好として扱われてしまい、トランスジェンダーが世界中で見られる性の多様性であるという理解に繋がらない可能性があります[12]。
とはいえ、現在の枠組が医療ケアと法的地位を求めるトランスジェンダーの人びとの一部に便利で好ましい方法となっているとしても、現行法の要件がすべての人に適用されるべきではない。
拷問に関する国連特別報告者は2016年の報告書で、トランスジェンダーの人びとに対し、本人にふさわしいジェンダーでの法律上の性別認定を行わないことは「教育、雇用、ヘルスケア及びその他の必要不可欠なサービスの利用の阻害要因になるなど、トランスジェンダーの人々の人権の享受に極めて重大な結果を生じさせる」と記している[13]。特別報告者は次のことに留意した。
身分書類上の性別表記の変更を認める国では、人権侵害的な要件が課せられる場合がある。例えば強制あるいはその他の本人の意思によらない性別適合手術、断種その他の強制的な医療処置が挙げられる[14]。
日本のトランスジェンダーの人びとに性同一性障害の診断を義務づける法的要件のもとでは、不必要で恣意的かつ負担の大きい検査を課される場合が多い。精神科医による診断の義務、及び結婚をしておらず、生殖腺がなく、未成年の子がいないことを請求人に求める法的要件は本質的に差別的である。こうした条件、なかでもそれを満たすために多くのトランスジェンダーの人びとが甘受しなければならない不当な扱いもまた、残虐で非人道的な取り扱いであり、トランスジェンダーの人びとの健康への権利の侵害に該当する。同法は、自らにふさわしいジェンダーで法律上認められたいと希望するトランスジェンダーの人すべてに対し、精神疾患であるとの診断を受け、認定に先立つ20年間のいかなる時期にも子を持たず、結婚していないことを強制している。これによって、多くの戸籍記載変更希望者に対し(もしこれらの要件が存在しなければこうした手順を経ることなどない人びとも含めて)身体を変形させる外科的介入を受け、不妊処置をとり、現在の婚姻関係の解消に向けて検討するよう強いている。
日本が定める法律要件はトランスジェンダーである子どもたちにとってとりわけ有害である。法律上の性別認定を得られる最低年齢は20歳と定められている。そして、法的性別認定(戸籍記載変更)は「自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思」[15]を有する人にだけ許される。これは、子どもたちに手術が不可欠だと思わせるとともに、「男性」と「女性」のあるべき身体や振る舞いに関するジェンダー・ステレオタイプに合わせるよう、強い圧力を加えるものだ。
こうした要件設定は、子どもの最善の利益が、当人に影響を及ぼす行政上・法律上の決定のすべてで第一に考慮されるべきとする原則と一致しない[16]。性同一性障害者特例法は、子どもがもつ身体の完全性(インテグリティ)、プライバシー、自律への権利に負の影響を及ぼす。これらの問題は、ジェンダーに不一致(gender non-conforming)な子どもに関連する性同一性障害者特例法の解釈について文部科学省が示した文書や[17]、性同一性障害者に対する精神科医向けガイドラインにも反映されている[18]。
日本の現行法上の性別認定手続はトランスジェンダーの人びとの基本的権利を侵害するものだ。同法はトランスジェンダーであることを、実際には存在しない疾患として扱っている。トランスジェンダーの人びとは、法律上の認定を得るための必要条件として、その疾患を有することを証明しなければならない。現行手続は、結婚している、未成年の子がいる、または生殖能力をもつトランスジェンダーの人びとを法律上の認定から排除している。この手続は差別的なだけでない。自らの性自認について法律上の性別認定を望むトランスジェンダーの人びとの多くに対して、当人が望まないかもしれない侵襲的な外科処置を受けることを検討するよう仕向け、場合によっては家族と別れることを求めるものでもある。
神奈川県に住むトランスジェンダー男性がヒューマン・ライツ・ウォッチに対して述べたとおり「人としての尊厳を傷つける制度であることは間違いない」のである[19]。
精神科医による診断の強制
性同一性障害者特例法は、自らの性自認について法律上の認定を求める日本のトランスジェンダーの人びとに対して、性同一性障害の診断を得ることを義務づけている。日本には、トランスジェンダーという性自認は1つの精神医学的な状態と考え、それに基づきサービスを求める当事者もいる[20]。しかし、こうした枠組はトランスジェンダーの人びとにスティグマを負わせるものでもある。ヒューマン・ライツ・ウォッチがインタビューした人の多くが、トランスジェンダーの人びとを診る精神科医も含めて、このスティグマについて語った。私たちの調査は、性同一性障害の診断書の取得に関連するプロセスについて、それ自体負担が大きく、人権侵害的な事例もあることを示す。
ヒューマン・ライツ・ウォッチがインタビューしたトランスジェンダーの人びとは、性同一性障害の診断を得るにあたってさまざまな経験をしていた。例えば、精神科医を訪ねたところ初診で診断書が発行されたケースがあった一方で[21]、病院スタッフや精神科医が患者に対して長く、屈辱的な手続を強いる場合もあった。
日本精神神経学会が2012年に公開した「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第4版)」(2018年1月最終改訂)は、性同一性障害の診断を行うために3つのテストを行うことを推奨している。
- ジェンダー・アイデンティティの判定。個人からの情報聴取などによる。
- 身体的性別の判定。染色体検査、ホルモン検査、内性器ならびに外性器の診療ならびに検査、「その他担当する医師が必要と認める」検査が実施される。
- 除外診断。「反対の性別を求める主たる理由が,文化的社会的理由による性役割の忌避やもっぱら職業的利得を得るためではないこと」などが確認される[22]。
診察の期間に言及があるのは最初の検査のみで、「診断に必要な詳細な情報が得
られるまで行う」[23]とされている。私たちの研究によれば、一部の請求人はこの手続にかなりの時間を取られているのである。
都内に住むトランスジェンダー男性、M・キヨシさん(24)はヒューマン・ライツ・ウォッチに対し、4年前、20歳の時に性同一性障害の診断を得るのに1年かかった経験を話してくれた。都内のジェンダー・クリニックに初診で行ったところ、精神科医は個人史を書いてくるように言い、それから幼児から現在までの自分の写真を持参して数週間後に再診に来るように告げられた。「行くたびに100個くらいの質問に回答しなければなりませんでした」とキヨシさんは言う。そして質問票の中身は、ジェンダーに特有の振る舞いや外見についてのステレオタイプな理解を尋ねるものだったという。
「すべてジェンダーに関する自由記述式の設問でした。『私が小さいとき、周りから____と言われていた』とか『もし親が亡くなったとしたら、私は____と反応するだろう』といったものです。」
キヨシさんの通院は6カ月に及んだ。「最初に病院に行ったとき、先生はすぐに診断書を出すと言っていました。でも2週間毎に来るように言われ、6カ月が過ぎても、まだ時間が必要だと言われました。まだ[診断書が]出せないからと言って、また来るように言われたのです。」6カ月後、諦めて都内の別の病院に行ったところ、そのジェンダー・クリニックの精神科医から言語セラピー・セッションとインタビューをさらに6カ月受け、ようやく性同一性障害の診断が出たという。「クリニックのスタッフはプロセスのすべての段階で『本当ですか?』と私に絶えず尋ねてきました」と、キヨシさんは述べた[24]。
トランスジェンダー男性のD・ヤスヒロさん(30)は、2カ月間に6回、自宅から520キロ離れたジェンダー・クリニックに通院し、精神医学検査を受けた。「画を見せられ、それについてセラピストと何度も話をするのです。おそろしく時間がかかってくどいばかりでした」と、ヤスヒロさんは語った。「その画には人物が複数描かれていて、どれが家族に似ているかと質問されました。」 性同一性障害の診断書を取ってすぐ、京都に近いクリニックに行ってホルモン療法をしたいと伝えたところ、同じテストを一からやらなければいけないと言われた。「検査はセカンド・オピニオンのためだと言われました。それでそのセカンド・オピニオンで認められた後、外部の精神科医のサード・オピニオンを得るように言われたのです。[25]」
石川県在住のトランスジェンダー女性のT・ハナエさん(29)は、ヒューマン・ライツ・ウォッチに対し、診断を得るのにほぼ1年を要したと述べた。「精神科医のところに丸1年近く通い、2010年の年末まで通い続けました。2010年12月になってようやく性同一性障害の診断が取れたのです。[26]」
強制不妊(断種)と手術の強制
手術要件には違和感しかありません。秩序のための手術とすごく感じます。なぜ国の秩序のために自分たちは健康な体にメスをいれなければいけないのか。制度としてそのように組み込まれていること自体が、大変な侮辱で、人権が軽視されていると感じます。そこが悔しい。
—神奈川県在住のトランスジェンダー男性、2018年8月
(手術は)本当はしたくないですけど、日本で結婚するためにはそれが要件だからしなきゃいけない。強要されていると感じます。ひどい話です。
—都内在住のトランスジェンダー男性、2018年8月
トランスジェンダーの人びとに対し、外見と身体の機能を変更する手術を求めるという法律上の要件は強要に該当する。法律上の認定を得るために外科処置を強制されることそのものが強要である。また手術を受けてからでなければ、婚姻などの権利を享受できないことも強要である。トランスジェンダーの人びとはヒューマン・ライツ・ウォッチに対し、日本における手術要件が著しい負担になっていると述べた。そうした処置の一部を望んでいる人ですら、法律の求めゆえに手術台にのることを急かされたと感じていた。
「それは戸籍も変えたいし、不愉快なことがない暮らしをしたいけれど、あまりにも壁が高すぎる。ただ生きているだけなのに、どうしてこんなに精神や経済のリスクを背負わなければならないのか」[27]と、都内在住のトランスジェンダー女性は思いを述べた。「一回始めたら、途中でやめることはできない。この手術はとても大きい手術で、リスクも高い。そして、一生メンテナンスしないといけなくなる。」
結婚や結婚に伴うメリットなど、他の権利へと通じる道が手術だけとなっている人もいる。都内在住のトランスジェンダー男性のG・タカユキさん(24)は言う。「結婚すると、配偶者控除が受けられますね。[28]」戸籍上の性別を変更したいが、要件である手術は望んでいないのでまだ受けていないと話した。「税金のメリットのために、手術を強要されているような気分ですね。税制面含め、結婚するとメリットがたくさんありますから。[29]」
多くの人にとっては手術に伴う身体へのリスクと影響が大きな障害となっていた。「もうひとつ大きいのは、手術をすれば不妊が確定すること」と、手術を受けていない都内在住のトランスジェンダー男性(25)は指摘する。「子どもか、自分の性別の戸籍かどちらかを選べと言われているようなもの。どうしてこんな条件があるのかとずっと不思議でした。私たちは、性器を露出して毎日生活しているわけではないのに。[30]」
神奈川県在住のトランスジェンダー男性は、家族の理解もあり、自分がどうしたいかが明確だったので、自分の性別移行はうまく行ったと感じていると話す。それでも、法律上の性別認定のために手術が法的に求められていなければ、その手術を受けることはなかったと、ヒューマン・ライツ・ウォッチに述べた。「なぜこの健康な体にメスを入れなければいけないのか、という疑問を抱えながらの手術でした。ただ、女性の戸籍は受け入れ難くて、そこが一番の問題だったので、必然的に手術をして戸籍変更する他ありませんでした。[31]」
このトランスジェンダー男性はこうも述べる。
もし手術要件がなかったとしたら、もっと吟味して比較して、本当に情報を集めて、自分なりに本当に腑に落ちた段階で決断していた。でも、必須条件ということで、自分も働いたりする中で、とても緊急のことでなるべく早く変えたかったので、本当に腑に落ちてはいないまま、手術せざるをえませんでした[32]。
福岡在住のトランスジェンダー男性は言う。
僕自身は生理は嫌だし、(子宮を)取るということは決めていました。けれども周りの友達はオペをするとかいうのは親からの反対が大きくて。オペとなるとどうしても一大事です。命に関わることでもあるし。オペなしでも、戸籍が変えたいと話せる環境にしてあげたい。なんの悪いところもない体にメスを入れることは、親からすれば理解できないことなんでしょう[33]。
ヒューマン・ライツ・ウォッチがインタビューした日本のトランスジェンダーの人びとからは、不妊になることなしに自らの性自認が法的に認定されるという選択肢があるなら、そうはしなかったとの声があった。
例えば、大阪在住のトランスジェンダー男性(30)のD・ヤスヒロさんは、自分の弟に次女が生まれたことで、男性としての法律上の性別認定を求める中で、自分のリプロダクティブ・ライツがいかに損なわれるかについて深く考えたという。「1人目の姪が生まれたときまだ卵巣があったので、私はホルモン注射を止めて、子どもが産めるようにしておきたいとすら考えたのです」と、ヤスヒロさんは言う。
性別適合手術を受けるために病院の待合にいるときですら、子どもを持つことを考えていました。男性として生きたいと思うことに迷いはありませんでした。でも赤ちゃんを産むことができるようにもしておきたかったのです。自らを法律で認めてもらうことと、自分の身体を望むようにしておくこととのどちらかを選ばなければならなかった。
ヤスヒロさんは続けて言う。「手術を受けたいトランスジェンダーの人びとは多いと思います。でも、それを戸籍変更の必要条件にするということは、私たちの生殖の権利が奪われるということなのです。[34]」
ヤスヒロさんの語りにはっきり表れているように、手術要件は、法律上の性別認定を求めるトランスジェンダーの人びとに対し、法の下で人として認められる権利を行使するか、身体の自律性への権利を行使するかという受け入れようのない選択を求めている。
手術を受けて不妊になったトランスジェンダー男性は言う。
当時は、とにかく戸籍変更で必死で、そこまで全然考えが回っていなかった。本当に早くって。でも今考えると、なにかしらの形で子孫を残す可能性を残せたとしたら、しておけばよかった、と思います。本当にいろいろなことを考慮する暇もなかったんです[35]。
手術は一切していないトランスジェンダー女性はこう述べた。「やはり、自分は子どもが欲しいと思う。もちろん、養子などの方法もあるけど、やはり自分の遺伝子を持つ子どもが欲しいと思う。」この女性は戸籍上の性別を「男性」のままにすることを選んだと説明してくれた。それは困難や差別を伴うものだが、女性として認定される要件として法が求める手術を受けたくはなかったと言う。「もし、このまま戸籍上も女性になる場合、生殖腺の機能を永遠に欠くようにしなければならない。自分は女性だけど、子どもの母親と名乗る事が出来ない。手術か子どもか。選ぶことの出来ない2つの選択肢。絶望です。[36]」
法律上の手続きを検討中の人からは、性別を変更したいという強い思いの一方で、処置への恐怖を感じるとの声があった。例えば、大阪在住のトランスジェンダー女性のI・タマキさん(27)は言う。
ハードルが高すぎます。アメリカでは手術しなくても性別が変更できるというのを読みました。ただ家族登録の性別を変えればよいと[37]。もし日本でもそうなれば、いますぐ性別を変えますよ。政府がなぜあれほど厳しい条件を課すのかわかりません。私は法律上の性別を変えたいんです。でも手術はリスクがもの凄く高い。だからどうするかまだ決めていません[38]。
R・ノリコさん(22)はこう述べる。「身分証明書の性別を変更したいのです。戸籍の性別を変えるには手術が必要です。それは本当に大きなプレッシャーなんです。」また金銭的な負担が気になると言う。「かなりの費用が必要ですが、両親の援助は期待できません。トランスジェンダーの友人たちは手術を受けることになっていますが、私はできない。まるで独りぼっち、取り残されたような気分です。」ノリコさんによれば、地元のトランスジェンダーのグループにいる人はみな「手術についてのプレッシャーを何らかの形で感じています。そのうち手術をしなければならないんだとみんな思っています。本当にきついことです。[39]」
M・キヨシさんは、1年かけて2つのクリニックを受診した後に性同一性障害の診断を得た。ヒューマン・ライツ・ウォッチがインタビューした時にはホルモン療法を受けていたが、手術はまだだという。「理想を言えば、いますぐにでも法律上の性別を変更したいのです。これまでの手続はすべて、自分が望んでいない、身体に大きな負担を与えるものばかりです。[40]」
手術要件が日本のトランスジェンダーの人びとの現実を反映していないことを強調する意見もあった。ある都内在住のトランスジェンダー女性は述べた。「手術しても、生きやすくなる保障はない。別に股間を見せて歩き回っているわけでもないわけだから。そんなすごいことでもないのだから。[41]」
年齢制限
性同一性障害者特例法は、日本の成人年齢である20歳(2022年4月からは18歳)未満のトランスジェンダーの人びとについて、法律上の性別認定を一律に認めていない。20歳未満でも診断を受け、または場合によっては性同一性障害の「予備的診断」を得ることができている。インタビューの回答者からはヒューマン・ライツ・ウォッチに対し、自らの性自認に基づくトイレの使用や制服の着用など、性自認に基づく教育を受けるための働きかけを成功させるために、性同一性障害の診断書を使ったとの声が聞かれた。
成人すれば法律が求める外科処置を親権者の同意なしに受けることができる。性同一性障害の診断(診断までの期間は人によってまちまちだが)を得た後、その後行われる必要な医学措置には何年もかかることもあり、相当な費用も発生する。その結果、たとえ10年以上前から自らの性自認を表明し、法律上の性別移行を望んでいたとしても、法律上の性別認定は20代半ばにならなければ行うことができないこともある。
しかし、性同一性障害の診断と医学的介入の要件を廃止しなければ、法律上の性別認定の最低年齢を引き下げるだけでは不十分だろう。ジェンダーに不一致(gender non-conforming)な子どもたちは結局法律上の性別認定を利用することができず、結果的に人権侵害に苦しむことになる。さらに、成人として法律上の性別認定を行うための厳しい医療的要件は、若者に相当の不安を生じさせている。このことはヒューマン・ライツ・ウォッチが行ったインタビューの証言にはっきり表れていた。
日本が性別認定に年齢制限を設けていることは差別的であり、子どもの最善の利益の考慮を妨げるものである。この制限は、自らのジェンダーを探究し、疑問を持っている子どもたちに有害な影響を与えうる。厳密な年齢制限はまた、自らの性自認に基づいた通学を望むトランスジェンダーの子どもにとって、教育への権利の侵害となりかねない。以下で論じるように、世界トランスジェンダー・ヘルス専門家協会(WPATH)は性別認定に関する2015年の声明で、「適切な法律上の性別認定がトランスジェンダーの若者にも利用できるようにすべきである」と述べている[42]。
日本の教育制度で考えると、国がトランスジェンダーの子どもに法律上の性別認定を認めていないことは、当事者が差別と品位を傷つける取扱いを受ける原因ともなっている。ジェンダーを探求・表現するために、情報や支援、安全な場所など、インクルーシブかつサポーティブな学校のすべての要素を必要とする若者にとって、年齢制限と厳格な医療的要件は深刻な悪影響となるものである。さらに言えば、医療処置が現在義務づけられていることは、ジェンダーに不一致(gender non-conforming)な子どもに対して、強制されなければ望むことのない医療処置を若い年齢で受けるようにとの強い圧力を与えることにもなりうるのである。
日本の学校ではステレオタイプに基づくきわめて根深い男女分離が見られる。中学校と高校ではほぼすべてに男女別の制服の着用が義務づけられており、男女別の学校活動も多い[43]。自らの性自認を探究していたり、トランスジェンダーとしての自認をもつ子どもにとって、こうした環境は厳しいものとなりうる。トランスジェンダーの高校教員の土肥いつきさんはこう指摘する。
日本の学校制度はきわめて厳しい性別二元制社会です。生徒に対して、自分がどの性別に属し、また属していないのかを、隠れたカリキュラムですり込んでいます。学年が進み、性別による区分けが厳しくなると、トランスジェンダーの子どもたちはひどく苦しみ始めます。隠したり嘘をついたりするか、自分らしく振る舞っていじめや排除の標的になるかのどちらかです[44]。
さらに、性同一性障害者特例法が、自らの性自認が法律上認定されることを望むトランスジェンダーの人びとに対して、精神医学的・外科的介入を義務づけていることは、若者に対して不安を与える要因になりうる。インタビューに応じてくれた人びとの多くは、自らの性自認ではなく出生時に割り当てられた性別に基づいて身だしなみをするよう強制された時に味わった学校での否定的な経験は、大学生活や職場といったその後の生活での不安を煽るものだったと述べた。まだ14歳のトランスジェンダーの子どもたちすら将来におびえていた。性同一性障害者特例法が求める医療処置を望んではいないけれども、それが現在では社会的認定を受ける唯一の方法であり、長年にわたる虐待や差別、排除にけりをつける方法なのだと語る子どもたちもいた。
2015年に文部科学省は全国の教育委員会などに対し「性同一性障害に係る児童生
徒に対するきめ細かな対応の実施等について」という通知を出している[45]。これはトランスジェンダーの子どものケアの責任が学校にあることを示した、文部科学省からの真剣なメッセージを伝える通知である。しかしこの通知では、診断と医療機関がジェンダーとセクシュアリティに関する主要な情報源として重んじられている。例えば、通知にはこのようにある。「医療機関による診断や助言は学校が専門的知見を得る重要な機会となる(…)」。こうした表現は、政府が依然として、性同一性障害者特例法に定められたトランスジェンダーの人びとの性自認の理解について、有害な病理学的モデルに依拠していることの表れである。
2015年通知は文科省による助言という位置づけで、学校に示された支援事例集も拘束力のない助言にすぎない。ヒューマン・ライツ・ウォッチが日本国内のトランスジェンダーの子どもたちに聞き取り調査を行ったところ、自らの性自認に従った設備利用をしたいというトランスジェンダーの子ども・生徒の申し出について、教職員の対応は人によってまちまちであることが示された。当人によるアイデンティティの申告のみに基づく法律上の性別認定の権利を実現することで、トランスジェンダーの子どもを取り巻く状況を大幅に向上させることができるであろう。
日本政府は、20歳以前に法律上の性別変更を行うことが、多くのトランスジェンダーの子どもの最善の利益でありうることを認めるべきだ。法律において、トランスジェンダーの人びとの法的性別認定について確たる年齢制限は設けられるべきではない。そうではなく、1人ひとりの子どもの個人的な環境が、しかるべき当局によって評価され、法律上の性別変更がその子の最善の利益になるかどうかが判断されるべきだ。政府はまた、トランスジェンダーの子どもに関する学校関係の方針・指針を改め、自らの性自認に従った制服の着用、学校設備の利用、活動への参加にあたり、いかなる子どもも性同一性障害の診断書を求められないことを明確に示すべきである。
家族関係と親子関係による差別
法律上の性別認定(戸籍記載変更)を請求する者全員に対して、現に婚姻をしていないことを求める日本法の規定は、戸籍記載の変更を望むトランスジェンダーの既婚者に暗に離婚を義務づけるものである。これは性別移行の結果生まれる同性婚状態が日本では認められていないからだ。こうした要件は差別であり、国連人権理事会の2011年と2014年の報告書など、主要な人権機関が非難しているところである。
トランスジェンダーの人びとが自らの性自認を法律上認めて欲しいと望む場合、現に未成年の子がいないことという規定は、トランスジェンダーの人びとの私生活・家族生活の尊重を受ける権利、家族を形成する権利を侵害するものであり、そうした理由による差別である。
2008年の性同一性障害者特例法改正により、法的性別認定(戸籍記載変更)を求めるトランスジェンダーの人びとには、現に未成年の子がいてはならない、とされた(改正前は「現に子がいないこと」とされていた)。この改正の事実は、政府が法律改正を検討する姿勢があることを示してはいるが、この改正では不十分である[46]。
II. 日本の法的性別認定(戸籍記載変更)
制度がもたらす影響
性同一性障害者特例法は、法律上の性別認定手続を日本で初めて定めた法律であり、その成立は、日本政府のセクシュアル・マイノリティ及びジェンダー・マイノリティに対する取扱いにおいて、極めて重要な出来事であった[47]。同法が定める必要要件を支持する活動家の団体や個人もいる一方で、他の人びとはそうした手続により深刻な問題を抱えてきた。
「性同一性障害」という診断は、自分の性自認(ジェンダー・アイデンティティ)を家族に説明する際に役立つこともある。例えば、あるトランスジェンダー男性はヒューマン・ライツ・ウォッチに対し、性別移行を正当なものだと両親に納得してもらうために「性同一性障害」の診断書を取得すると述べた。
年末に両親にカムアウトして大反対されました。両親の同意を得るのは難しくても、診断書は両親を説得させる材料ともなると思うので、早く欲しい。でも通院がとても長引いていて、近いうちに診断書をもらえるのかとても心配です[48]。
しかし、必要要件である診断や措置を受けない人、または受けようとしたものの時間がかかりすぎるなどの問題に悩まされたり、診断書を取れなかった人などは、自らのアイデンティティと外見とに似通わない身分証で日常生活を送ることになり、多大な困難に直面する。
「自分はいつも指で少し隠して出すんです」と、東京のトランスジェンダー女性のT・アキさんは言う。「見た目の性別と心の性別の違いがあって、相手側が混乱することが多いんです。公的書類を出さなくてはならないときはいつも、心臓がギュっとなる苦しみや抵抗があります。[49]」
教育へのアクセス
2016年にヒューマン・ライツ・ウォッチは、日本の学校でのLGBT生徒へのいじめの実態を明らかにする報告書を発表した[50]。同報告書では、教育のアクセスに関してトランスジェンダーの生徒が経験する大きな障壁について言及するとともに、文部科学省がこの問題について近年示した方針・指針なども取り上げた。トランスジェンダーの生徒が直面する問題に文部科学省が対応する姿勢を見せていることは、確実に若者の成長の助けとなっている。しかしこうした方針・指針も現行法に基づくものにとどまっている。つまりトランスジェンダーの生徒を「性同一性障害の生徒」として捉えている。
こうした政策上の障壁に加えて、日本の学校文化がジェンダー規範に依然として厳密なことも問題だ[51]。日本の学校の大半では、制服着用やトイレ使用、学校で与えられる情報、その他ジェンダー規範を強調するメカニズムなどで、厳密なジェンダー規範に従うことが学校の方針となっている。
学校での活動も、性別役割の強制度の違いこそあれ、男女別は典型的といえる。こうした標準システムがトランスジェンダーやジェンダーに不一致(gender non-conforming)な生徒に引き起こす不安には強いものがある。ある中学生はこう話してくれた。「学校は性別で分けられることが本当にたくさんあります。出席番号、制服、座席表や髪の長さまで。[52]」日本の教育が専門の人類学者ピーター・ケイヴによれば、小学校においてさえも、子ども・生徒たちの待遇や立場的な状況のジェンダー差ははっきりしている[53]。
トランスジェンダーの高校教師である土肥いつきさんはヒューマン・ライツ・ウォッチに対して以下のように語る。
日本の学校制度はきわめて厳しい性別二元制社会です。生徒に対して、自分がどの性別に属し、また属していないのかを、隠れたカリキュラムですり込んでいます。学年が進み、性別による区分けが厳しくなると、トランスジェンダーの子どもたちはひどく苦しみ始めます。隠したり嘘をついたりするか、自分らしく振る舞っていじめや排除の標的になるかのどちらかです[54]。
東京都世田谷区のトランスジェンダー女性のM・カオル さん(19)は、高校で男女が 「厳密に区分されていた」ことで孤立したという。「高校ではもっと男女の区分けが緩いかと思っていたのですが、実際は完全に分かれていました。」カオルさんは女子の制服を着ることは認められなかったが、髪を伸ばし、本人の説明によれば「女の子っぽい見かけ」をしていた。女子の課外活動にはすべて参加することができたが、同級生からはけんか腰で詮索するような質問を受け、からかわれていた。「男子からも女子からも孤立していました。どこにも行き場がありませんでした。[55]」
東京のあるトランスジェンダー女性は、学校でのつらい経験が人生に影響を及ぼしていると語る。
学校での屈辱で学校に行けなくなりました。教育に関しては、小さいころから、大人が正しいと思っていました。でも最近は、ほとんど間違っていたなと思う。自分は諦めて生きてきました[56]。
トランスジェンダーの子どもの権利を守るための情報を探した上で、それに沿ったしっかりした対応を自分の学校はとってくれたと話す子ども・生徒がいたことも事実である。ある東京の弁護士は、都内の複数の学校がトランスジェンダーの子ども・生徒がいることに気づき、制服やトイレなどの問題でこの弁護士に相談を持ちかけ、子ども・生徒の自らの性自認に基づいた制服着用やトイレ利用、授業などの学校活動への参加を認めることで合意したという[57]。しかし学校側のこうしたアプローチは、原則というより例外とみられる。
制服
日本の中学高校の大半が制服着用を義務づけている。制服は性別によって異なり、出生時に割り当てられた性別によって 2 つの選択肢、つまり男子用と女子用のどちらかが指定される。「服装規定は一般的にとても厳しいです」と、日本の LGBT の若者が直面する問題に取り組むトランスジェンダー男性の遠藤まめた氏は言う。「制服がどういうことを意味するかというと、ちゃんと着れない生徒はすなわち悪い生徒だということ。[58]」
ヒューマン・ライツ・ウォッチが記録した事例のなかには、生徒が制服の変更を求めることができた場合もあった。自らの性自認に従って制服を完全に変更することが認められた事例も数件あった。「学校は非常に柔軟になりつつあります」と、東京のある弁護士は指摘する[59]。
しかしヒューマン・ライツ・ウォッチが集めた制服の変更が認められた事例の多くは、性自認を自由に表現する生徒の権利の尊重のための方針が一貫して適用された結果ではなく、むしろ学校教職員の同情、親からの熱心な働きかけ、あるいは性同一性障害の診断を生徒が示した事例などだった。トランスジェンダー生徒や、性自認を探究している子どもたちにとって、厳密な服装規定は強い不安をかき立て、不登校や退学の原因にさえなっていた。大阪の精神科医の康純氏はこう述べる。
中学校や高校は制服になることが多いので、出生時に割り当てられた性別に違和感を持っている子どもは自分が感じている性とは違う性の制服を強要されることになります。制服を着ることで完全に男女が区別されることになり、自分の感じている性別を否定され、ひいては自分の気持ちは否定されるものであると考え、自己肯定感を持つことが困難になります。従って、この時期にカウンセリングを受けに来る子どもが多くなります[60]。
例えば、O・タケシ さんは、女子制服を着用しなければならないことへの不安はどんどん募っていったと話す。「中学校が始まった時、制服のことは最初のうちはなんとも思っていませんでした。次第に疑問を持つようになり、中3の頃には学校に行くのが毎日嫌でした。スカートを履かなければならなくなるからです。[61]」
日本の学校に通うトランスジェンダーの若者とジェンダーに不一致(gender non-conforming)な若者が直面するこうした困難がいずれも強く示しているのは、年齢にかかわらずトランスジェンダーの人びとを受け入れて支援するために、性同一性障害者特例法を改正することの必要性である。
大学教育
2018年7月、日本国内の複数の女子大学が入学者受入方針を見直して、トランスジェンダー女性の入学を許可する方向であるとの報道がなされた。『日経アジアレヴュー』はこう報じた。
日本学術会議法学委員会の〔社会と教育におけるLGBTIの権利保障〕分科会は昨年(=2017年)、トランスジェンダーの生徒に対して女子校や女子大への入学を認めないことは、「学ぶ権利の侵害」にあたると指摘した。分科会には女子大の学長なども参加している[62]。
ヒューマン・ライツ・ウォッチは、トランスジェンダー女性の受け入れについて方針を表明したお茶の水女子大学(東京都)に、出願者の性自認の確認方法に関する基準について問い合わせた。これに対し、お茶の水女子大学の広報担当は次のように説明を行った:
トランスジェンダー女性の受け入れについては、入学試験出願前に事前申出をいただき、出願資格の確認を行うとともに、入学後の学生生活についての対応を説明し、合意したうえで受験するという方法をとります。申出があった方には、ご自身の性別違和や性自認についての自己申告書、性自認を確認する書類(医師の診断書、高校の教員や保護者による書面等)があればその提出をお願いし、出願資格を確認する予定です[63]。
お茶の水女子大学は医師の診断書を資格要件としない方針とみられるが、これはトランスジェンダーの人びとの公式な承認を権利ベースかつ自己申告方式で行うことに向けた有望な一歩である。
医療、雇用、旅行に関わる問題
医療機関を受診するトランスジェンダーの人びとは、ジェンダー表象と一致する身分証明書類を持ち合わせていない結果、立ち入ったことを聞かれたり、屈辱的な扱いを受けたりする可能性がある。例えば、大阪のトランスジェンダー男性(30)はヒューマン・ライツ・ウォッチに対し、法律上の性別変更を行う以前は、医療機関に行かないようにしていたと述べた。
以前は病院に行くのが嫌でたまりませんでした。保険証の性別が女性になっていたからです。その恐怖のせいで危険な状況になったことがあります。あるとき胃に激痛が走り、パートナーに病院に無理矢理連れて行かれました。数日間ためらっていたのですが、パートナーが絶対に行けと。もし行ってなければ死んでいたと思います[64]。
法律上の性別変更に必要な措置を行っていないか、行うことのできない日本のトランスジェンダーの人びとは、就職活動や職場で、有害な目に遭う恐れがある。現行の法制度は、若者の自分の将来に対する考え方にすら影響を及ぼしかねない。例えば、沖縄で大学に通うトランスジェンダー男性(18)はこう述べる。
(手術なしの)今の状態で幸せです。でも、就職するまでには手術を受けないといけないのかな、完全に移行しなきゃいけないかなと考えてます。人はそう思いますから。今はそれが息苦しく感じます。現状には満足してるけど、将来は暗いと感じてます[65]。
自分の性自認を明らかにしたせいで、侮蔑され、差別的な取扱いを受けたと、ヒューマン・ライツ・ウォッチに話す人もいた。「就活は本当に大変です。大学のキャリアセンターに行って、カミングアウトしたんですけど」と、東京のXジェンダー(22)は述べた。「こう言われました。あなたはマイノリティなんだから、何でも自分の思ったとおりになるわけではありませんよ、と。そう言われたので、大学を休学し、精神科医に通うことにしました。[66]」
ある場所から別の場所に移動するだけのことが、身分証明書の性別が見た目と一致していない人びとにとっては危険で、屈辱的な経験をもたらすこともある。その確率は、とくに外国旅行で高くなる。身分詐称を疑われたり、執拗な検査や屈辱にさらされたりする可能性もある。国連の人権専門家は、トランスジェンダーの人びとをこのようなかたちでセキュリティ・チェックの標的とすることを非難している[67]。
「法的に性別が認定されるのはよいことです。自分の身分証明書を持てるので、自分のことを誰かに説明する必要もなくなるからです」と、大阪のトランスジェンダー男性は言う。「問題なく生活を送りたいとずっと思っていました。何も支障がないように。それが今の状態です。仕事でも、旅行でも、どんな行政手続でも問題がありません。[68]」
III. 日本の法制度におけるトランスジェンダーの人びとの取扱い
南野知惠子監修(性同一性障害者特例法が国会で成立した2003年に議員連盟の会長、2004年~2005年に法務大臣)の「解説 性同一性障害者性別取扱特例法」(2004年発行)には、次のように記されている。
「生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること」を要件としたのは、性別の取扱いの変更を認める以上、元の性別の生殖能力が残っていることや、生殖腺から元の性別のホルモンが分泌され、作用するようなことは妥当でないと判断されたことによる。すなわち、性別の取扱いの変更がなされた後に、残存する元の性別の生殖機能により子が生まれるようなことがあるならば、様々な混乱や問題を生じることにもなりかねず、また、生殖腺から元の性別のホルモンが分泌されることで、身体的・精神的に何らかの好ましくない影響を生じる可能性を否定できないと考えられたものである[69]。
この分析は、トランスジェンダーの人びとが生殖機能を保持した場合に社会に与える否定的影響という憶測による恐れに基づく。科学的根拠はなく、人権基準にも医学上のベスト・プラクティスにも反している。不幸なことに、同法に関するこの解説書が執筆されて10年以上経った現在でも、これと同じ、トランスジェンダーの人びとに対する不正確な情報に基づいた差別的な考えが、日本政府の分析の根幹に依然として存在する。
2016年にヒューマン・ライツ・ウォッチは、すべての者が身体的・精神的に到達可能な最高水準の健康を享受する権利に関する国連特別報告者と、拷問及び他の残虐な、 非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する国連特別報告者に対して、日本における法的性別認定法に関する書簡を送付した[70]。両特別報告者と厚生労働省の間で書簡のやりとりが行われた[71]。
2人の特別報告者は、性同一性障害者特例法が複数の点で国際人権法に違反していると批判した。特に不妊(断種)要件を人権侵害かつ差別的と判断した。
トランスジェンダーの人びとに対し、強制された、または本人の意思によらない性別適合手術、断種、その他の強制的な医療処置を受けさせることは人権侵害であり、差別にもとづくものであり、身体の完全性(integrity)と個人の自己決定の権利を侵害し、虐待あるいは拷問に該当するものであり、強制・強要された断種は事情に関わらず禁止すること、周縁化された集団に属する個人をそうした強制・強要された断種から保護するための特別措置を適用すること、ジェンダー・アイデンティティの法的認定のためのその他の人権侵害を伴う要件を廃止すること、また透明で利用可能な法的性別認定手続を採用することを勧告する[72]。
日本政府は、性同一性障害者特例法が「国際人道[原文ママ]法と世界基準を考慮に入れた上で、適切に運用されている」[73]と回答したが、政府による同法の擁護は、国際的な医学的・法学的基準での理解を踏まえると、性自認(ジェンダー・アイデンティティ)に関する深刻な誤解が複数あることを示している。
「性同一性障害」の診断を要件としていることについて、日本政府は「この要件はまた、診断を得ずに、性同一性障害を主張して性別変更の請求が行われるのを防ぐためのもの」と説明している。
日本政府は次の点を強調している。
性同一性障害の認定が客観的かつ確実に行われるためには、2人以上の医師の診断が一致している必要があり、その診断は「一般に認められている医学的知見に基づき」行われなければならない。
性自認に関する一般に認められている医学的知見は、性同一性障害者特例法が成立してからかなり大きく変化している。次の章で分析するように、法律上の性別認定に診断が必要という考えは、一般に認められている医学的知見ではない。実際、世界的なトランスジェンダーの健康に関する専門家の組織は、医学措置と法的手続を完全に分けることを求めている[74]。さらに、「トランスセクシュアリズム(性転換症)」や「性同一性障害」という診断名は、2つの有力な世界的疾病分類であるアメリカ精神医学会『精神障害の診断と統計マニュアル』(DSM)にも、WHO『国際疾病分類』(ICD)にも、もはや認められていないのである。
不妊化要件が人権侵害であるとの批判に対し、日本政府はこう答えた。
法律上の性別変更が認められた後に、以前の性の生殖機能を用いて出産した場合、混乱や様々な問題が生じうる。
この主張が示唆するのは、卵子の提供か妊娠を望むトランスジェンダー男性、または子どもを受胎するための精子提供を望むトランスジェンダー女性に対しては、「混乱」を防ぐために、そうした行動をとる権利を奪われなければならない、ということである。例えば、妊娠する男性に混乱する人がいるかもしれないと予想することは合理的であるが、そうした仮説に基づく社会的恐れは、強制不妊を正当化しない。
請求人に未成年の子がいないという条件に関する日本政府の回答は次の通りである。
「現に未成年の子がいない」という条件が明記されているのは、この制度が親子関係など家族内に混乱を生じさせ、あるいは子の福祉に影響を及ぼすことになりかねないとの議論を踏まえてのことである。
南野氏監修の条文解説でも同様に、「子に心理的な混乱や不安などをもたらしたり、親子関係に影響を及ぼしたりしかねない」[75]と主張されている 。こうした主張は、トランスジェンダーの人びとは良い親になれないという侮辱的で、根拠のない憶測に基づいている。事実、トランスジェンダーの人びとは良い親になりうるし、また実際なっており、子どもとの関係も良好であるという研究結果が示されている[76]。
残念ながら、日本の裁判所はトランスジェンダーの人びとの権利に関する判断で、類似の欠陥のある論理に従っている。
日本国内の判例
ヒューマン・ライツ・ウォッチが知る限り、日本の法律上の性別認定制度の手術要件を直接争点として個人が提起した訴訟は1件だけである。2018年2月に広島高等裁判所岡山支部は、トランスジェンダー男性の臼井崇来人さん(43)を原告とする審判に対して判断を下した。臼井さんは、手術要件が日本国憲法に違反するとして性同一性障害者特例法自体を問題とした。
広島高等裁判所は、性同一性障害者特例法は混乱を避けるためにあると次のように判示した。
特例法に基づいて性別の取扱いの変更がされた後、元の性別の生殖能力に基づいて子が誕生した場合には,現行の法体系で対応できないところも少なくないから、身分法秩序に混乱を生じさせかねない[77]。
そして同裁判所は、「元の性別の生殖能力等が残っているのは相当ではない」[78]との判断を示した。本件決定は国際人権法に違反しており、有害で差別的かつ時代後れのパラダイムの存続に棹差すものだ。
最高裁は2019年1月、臼井氏の申立てについて判断を示した。「社会に混乱を生じさせかねないことや、長きにわたって生物的な性別に基づき男女の区別がされてきた中で急激な形での変化を避ける等の配慮」をする性同一性障害者特例法は、現時点では合憲であると判断した。
一方で、4人の裁判官からなる最高裁小法廷は、同法は「その意思に反して身体への侵襲を受けない自由を制約する面もあることは否定できない」とも示した。
うち2名の裁判官は補足意見において、臼井氏の申立ての緊急性及び日本の法律改革の必要性について以下のように述べた。「性同一性障害者の性別に関する苦痛は、性自認の多様性を包容すべき社会の側の問題でもある」とし、「性別は、社会生活や人間関係における個人の属性の一つとして取り扱われているため、個人の人格的存在と密接不可分のものということができ、性同一性障害者にとって、特例法により性別の取扱いの変更の審判を受けられることは、切実ともいうべき重要な法的利益である」と示したのである[79]。
近年の判例から読み取れるのは、ある一部の人びと―トランスジェンダーの人びと―を権利主体として認めつつ、当事者が実在しない「性同一性障害」に罹患した人として理解する法律を解釈する複雑さだ。しかしながら、こうした枠組の下でも、トランスジェンダーの人びとは差別事案に訴訟を提起し、多くの勝訴判決を勝ち取っている。次に示す判例は包括的なものではないが、その例証となるものだ。一部は判決が確定しておらず、公に得られる情報が限られている事案もある。
2002年6月20日 東京地方裁判所 会社での差別事件
旅行ガイドブック等を発行する会社に勤務していた会社員は性同一性障害の診断を受けた。女性は会社に対し、女性として働くという労働者の権利を尊重してほしいと訴えた。しかし会社側に拒否されたので女装して出勤したところ、「職場秩序を乱した」として懲戒解雇されたのである。 判決では会社による懲戒解雇が無効とされた。裁判所は女装が他の社員の混乱を生じさせるとした会社側の主張を一理あるとした。しかし会社員は「女性としての行動を抑制されると、多大な精神的苦痛を被る状態」にあり、会社側には従業員らの「理解を図ることにより、時間の経過も相まって(このような違和感や嫌悪感を)緩和する余地が十分にある」との判断を示した[80]。 |
2014年9月8日 静岡地方裁判所浜松支部 ゴルフクラブ入会許否事件 (東京高裁2015年7月1日判決で控訴棄却)
静岡県湖西市内の株主会員制ゴルフクラブが、法律上の性別を男性から女性に変更したトランスジェンダー女性(59)の入会申込を拒否した事件。女性は公序良俗に反する行為であるとしてこのゴルフクラブを相手に損害賠償請求の民事訴訟を起こした。 裁判所は原告の請求を一部認容した上で、判決文で「性的少数者への差別を明確に批判する」とし、「被告が被った精神的損害は、看過できない重大なものといわざるを得ない」[81]と述べた。しかし裁判所はこうも記している。「性的少数者であることは趣味や嗜好ではなく、本人の意思とは関係なしに患われる病気であることは社会においてよく理解されている。性同一性障害という疾患ないしその治療行為を理由とする不合理な取扱いが許容されないのは、他の疾患を理由とした不合理な取扱いが許容されないのと同じである[82]。」 裁判所はゴルフクラブを経営する会社に対し、慰謝料と弁護士費用合わせて110万円の損害賠償を命じた。 |
2014年4月 大阪家庭裁判所 特別養子縁組審判
大阪家庭裁判所は、トランスジェンダー女性による特別養子縁組の申し立てを認めた。GID(性同一性障害)学会によれば、この手続は2004年の性同一性障害者特例法施行以降、手続き的には申立可能となったが、トランスジェンダー女性に特別養子縁組が認められたのは初めてであり、これにより女性は日本で初めて法的に「母親」となったトランスジェンダー女性となった[83]。 |
2015年11月13日提訴 東京地方裁判所 職場でのトイレ利用と嫌がらせ事件
経済産業省職員が、自分の性自認に基づくトイレ利用を禁じられ、上司から性別移行に関して嫌がらせを受けたとし、国を相手に処遇改善と損害賠償を求める裁判を起こした[84]。訴訟は本報告書執筆時点(2019年2月末)で進行中である。 |
2016年6月28日提訴 名古屋地方裁判所 トランスジェンダー社員への カミングアウト強制事件
女性の名前に変更した愛知県の会社員が、職場でカミングアウトを強制され精神的苦痛を受け、うつ病を発症したとして、勤務先の愛知ヤクルト工場に330万円の損害賠償を求める訴訟を名古屋地裁に起こした[85]。 |
2017年6月19日和解 京都地方裁判所 トランスジェンダー更衣室使用拒否事件
京都市のトランスジェンダー女性が、京都府内のフィットネスクラブで、性別適合手術前の性別に基づき男性更衣室を利用することを求められたとして、運営会社のコナミスポーツクラブを相手に起こした損害賠償請求訴訟。和解が成立したが、具体的な和解条項は公表されていない[86]。 |
IV. 国際法、性別認定のベスト・プラクティス
国際人権基準では、トランスジェンダーの人びとのジェンダーの再割り当てに関し、法的手続と医学措置の分離が必要であると考えられるようになってきた。ジュネーブにある国連人権理事会で2017年から18年にかけて行われた日本政府に対する普遍的定期的審査(UPR)において、ニュージーランド政府は、日本は「性同一性障害者特例法の見直しを含め、性的指向・性自認に基づく差別に対処するための行動をとるべきである」と勧告した[87]。日本政府は同勧告を「支持する(supporting)」と表明した。これは2022年予定の次回普遍的定期的審査までにこの勧告を実行するコミットメントを示したことになる[88]。
2018年の国連総会に提出した報告書で、性的指向と性自認に関する独立専門家のヴィクトール・マドリガル-ボルロス(Victor Madrigal-Borloz)は次のように述べている。
法律上の認定を行わないことは、国家の義務の根本的な破綻とも言えるほどに、当事者のアイデンティティを否定するものだ。ある研究者はこう述べた。国がトランス・アイデンティティへの法的なアクセスを否定するとき、実際に行っているのは、正しい国民とは何かという理解の発信なのである[89]。
ヒューマン・ライツ・ウォッチが日本でインタビューしたトランスジェンダーの人びとも似た考えを持っていた。東京のトランスジェンダー男性、G・タカユキさんは、性同一性障害者特例法の手術要件がなぜ正当化されていると思うかという問いかけにこう答えた。
日本では、少しでも例外があると冷たくされるので、それかなと思いますね。例外を出さない、全員同じ、一律前を向いていきたいので、「適切でない」と(言われる)。例外を出さないように法律をつくる。だから、男性生殖器を持った人が男性と結婚するのは「適切でない」[90]。
市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)は、すべての人の平等な市民的及び政治的権利(第3条)、法の下に人として認められる権利(第16条)、私生活と家族への権利(第17条)、婚姻できる年齢の人が婚姻をし、かつ家族を形成する権利(第23条2項)を規定している。
締約国は自由権規約の下、性を含むいかなる理由による差別なく、すべての人びとに法律の下の平等と法律による平等の保護を確保する義務を負う(第26条)。自由権規約委員会は、自由権規約について締約国の履行状況をモニタリングする国際的な専門家機関として政府に対し、自らのジェンダーを法律上認定される権利などトランスジェンダーの人びとの権利を保障するとともに、締約国に性自認(ジェンダー・アイデンティティ)を法律上認定する際の人権侵害を伴う要件や不均衡な要件を撤廃するよう明示的に勧告してきた[91]。
これが反映されたベスト・プラクティスを複数の国が採用している。スウェーデン、オランダ、アイルランド、コロンビア、マルタ、デンマークは近年、法律上の性別認定手続を見直し、侵襲的な医学措置を要件から外した。デンマークとマルタは、アルゼンチンと同じく、法律上の性別認定に際して医師の診断を求めない[92]。アルゼンチンとマルタは、法律上の性別認定手続において最も優れた基準を設定していると広く受け止められている[93]。立法府がこうした基準を法律や政策として採用する国もあれば、裁判所がこうした原則の適用を求めた国もある。
拷問に関する国連特別報告者は2013年、「多くの国で、トランスジェンダーの人びとは、自らが希望するジェンダーを法的に認定される必要条件として、多くが希望しない不妊化手術(断種手術)を課されている」と指摘[94]。特別報告者は、こうした強制不妊(断種)を、差別されない権利や身体の完全性(integrity)などの人権への侵害とみなす流れに留意した上で、各国政府に対し「事情を問わず強制・強要された不妊(断種)をすべて違法とし、周縁化された集団に属する個人に特別な保護を与えること」を求めている[95]。
国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は2012年、性的指向及び性自認を理由とする暴力及び差別の撤廃を求める2011年の人権理事会決議の求めにより作成された報告書で、「性別変更を認める国の法令では、黙示的または明示的に、その条件として申請者に不妊手術(断種手術)を義務づけることが多い。法的性別認定を求める場合に婚姻していないことであることを要求する国もあるが、これは当人が婚姻中の場合は離婚しなければならないことを意味する」と記した[96]。
2014年の共同声明で、WHO、OHCHR、国連合同エイズ計画(UNAIDS)、国連開発計画(UNDP)、国連児童基金(UNICEF)、国連人口基金(UNFPA)はこう述べている。「加盟国が負う健康への権利の尊重義務は、加盟国に対して差別的実行を差し控えるよう求めるものである。この義務には、障がい者やトランスジェンダー及びインターセックスの人びとの権利、これらの人びとが自身の生殖能力を保持する権利を尊重する義務も含まれる。[97]」 これらの国際機関は各国政府に対し「完全かつ自由で、十分な情報が与えられた意思決定を法的に保障し、強制・強要された、または非自発的な不妊(断種)を廃絶し、この点に関する法律や規制、政策を再検討、改正、発展させる」[98]ことを求めた。1999年に設立された日本初かつ最大のGIDに関する専門家組織であるGID(性同一性障害)学会の理事会は2017年、この報告書を支持する声明を採択し、「〔性同一性障害者特例法〕 3 条 1 項に規定された要件、特に『手術要件』がなければ、 状況はかなり異なったものになると考えられる」と指摘した[99]。
性的指向及び性自認に関する2014年の国連人権理事会決議によるマンデートに基づき作成された2015年の報告書で、OHCHRは各国に対し、「申請に基づき、望む性別を反映した法的な身分証明書を発行すること、不妊(断種)や強制的な治療、離婚など人権侵害を伴う要件の削除」を直ちに開始するよう勧告した[100]。
WHO、UNDP、米国際開発庁(USAID)、米大統領エイズ救済緊急計画(PEPFAR)、アジア太平洋トランスジェンダー・ネットワーク、及びヘルス・ポリシー・プロジェクトが共同発表した『アジア太平洋地域のトランスの人びとに対する包括的ケアの提供に関する基本構想2015』は、政府に対して「医療要件やいかなる理由による差別もなく、各人が自己決定した性自認を十分に認めるために必要なすべての立法上、行政上、及びその他の措置を講じる」[101]よう勧告している。
同様に、性的指向及び性自認に関する国際人権法の適用に関する原則(ジョグジャカルタ原則)の第3原則は、次のように述べている。
すべての人びとは、すべての場所において、法の下に人として認められる権利を有する。さまざまな性的指向及び性自認の人びとは、生活のすべての場面において法的能力を享有する。各人が自己定義する性的指向及び性自認は、自己の人格と不可分であり、自己決定、尊厳及び自由の最も基本的な側面のひとつである。何人も、自己の性自認の法的承認のための条件として、性別適合手術、不妊またはホルモン療法などの医療処置を強制されない。いかなる地位(婚姻または親であることなど)も、個人の性自認の法的承認を妨げるために援用されない。何人も、自己の性的指向または性自認を隠匿、抑圧または否定する圧力をうけない[102]。
地域機構もこうした原則の論理に従っている。
加盟47カ国からなる地域機関である欧州評議会の議員会議が2013年6月、強要された断種及び去勢の廃止を求める決議第1945号を採択した。トランスジェンダーの人びとは、欧州評議会加盟諸国において、強要された断種の影響を特に受けているグループの1つとされた[103]。 同様に、2018年1月、米州人権裁判所は勧告的意見を発表し、各国は米州人権条約の下、「各人の自由で自律的な決定」のみに基づいた効率的で安価かつ直接的な法律上の性別認定手続を確立する義務があること、またトランスジェンダーの人びとに対し、裁判所で性別記載の変更を請求するよう強制することは、その人が持つ権利の「過大な制限」に該当すると述べている[104]。
国際的な医療専門家団体は近年、法的性別認定に関する医療モデルに反対の立場を強めてきた。国際的な学際的専門職組織WPATHは、トランスジェンダーの人びとの健康につき、エビデンスに基づく診療、教育、研究、権利擁護(アドボカシー)、公共政策、そして尊重の推奨を目的とし、全世界に700人以上の会員を擁する団体である。WPATHは2010年の声明で、法律上の性別認定から不妊(断種)要件を外すよう求めていた[105]。声明は次のように述べる。
いかなる人も、自己のアイデンティティの認定条件として手術や断種を求められるべきではない。身分証明書に性別表記を要する場合には、その表記は、生殖能力と関係なしに、その人の実感に基づく性別を認定すべきである。WPATH理事会は、政府やその他の当局に対し、アイデンティティの認定における外科処置要件を削除するよう強く求めるものである[106]。
2015年にWPATHは声明を更新し、強制不妊(断種)を重ねて非難するとともに、法律上の性別認定のために課される、きわめて困難かつ医療化された手続への批判をさらに広げてこう記した。「いかなる医学的・外科的・精神保健的治療及び診断も、個人のジェンダー・アイデンティティの適確な指標になるものではない。したがって、法的な性別変更の要件とされるべきではない」。また「婚姻の有無や親であるかどうかが、法律上の性別変更認定に影響を及ぼすべきではなく、また、適切な法律上の性別認定がトランスジェンダーの若者に提供されるべきである。[107]」
そして2017年にWPATHはポジション・ステートメントを更新し、次のように重ねて述べた。
WPATHはさらにすべての人が自らのジェンダー・アイデンティティと一致する身分証明書類を持つ権利を確認する。ここには法律上の性別を付与する書類も含まれる(…)。トランスジェンダーの人びとは、その人がどのようなアイデンティティを持ち、どのような外見かに関係なく、すべての人が望み、受けている性別認定を享受すべきだ。トランスジェンダーの人びとの性別認定に対する医療やその他の面での障壁は、心理的・精神的健康を害しうる。WPATHは、書類に記載される法律上の性別又は性別表記の変更を望む人びとの障壁となる、いかなる医療的要件にも反対する[108]。
世界における実施状況
内閣総理大臣が所轄する独立組織で、社会科学、生命科学、自然科学、工学の日本における研究者を代表する日本学術会議は、2017年9月に同会議における法学委員会の社会と教育におけるLGBTIの権利保障分科会が発表した提言「性的マイノリティの権利保障をめざして―婚姻・教育・労働を中心に―」で、「性同一性障害」の語を削除することを提言し、また日本精神神経学会においては「性の不一致(gender incongruence)」への用語変更が検討されていると指摘した[109]。日本学術会議はまた、手術、非婚、及び子がいないという要件を法律から削除するよう提言している。
特例法制定当時、立法担当者は、「性別が人格そのものと深く結び付き、憲法第13条の個人の尊重や幸福追求権の問題にかかわってくる面がある」こと自体を認識していた。それから14年経過した今日、各国の改正動向を踏まえつつ、前述の世界保健機関による生殖腺除去強制に反対する共同声明(2014年)も考慮し、個人の尊重や幸福追求権の保障として、要件を見直す時期に来ているものと考える[110]。
この結論に達するにあたり、日本学術会議は近年世界で生じている法律上、医学上の変化を挙げている。そうした事例の多くは本報告書でも検討されているものだ。
拷問に関する国連特別報告者が2013年の報告書で指摘したように、複数国の裁判所もこうした基準を判断に反映し始めている。特別報告者の報告書では、以下の事件が言及された。
- 2009年、オーストリア高等行政裁判所は、ジェンダー・アイデンティティの法律上の性別認定の条件として性別適合手術を課すことは違法であるとの判断を示した[111]。
- 2011年、ドイツ憲法裁判所は、性別適合手術要件が身体の完全性(integrity)及び自己決定権を侵害すると認定した[112]。
- 2012年、スウェーデン高等行政裁判所は、強制不妊(断種)は自発的とみなすことはできないとの判断を下した[113]。
- 2014年9月、ノルウェー平等機関(Norwegian Equality Body)は、保健社会福祉省は性別認定法における不妊(断種)要件の正当性を示しておらず、したがって不妊(断種)要件は差別禁止法に違反していると判断した[114]。
アジア諸国の裁判所で、法律上の性別認定手続における医療的非介入について同様のコミットメントが示された。例えば次の事例がある。
- 2007年の判決で、ネパール最高裁判所は第3の性別カテゴリーを定義し、トランスジェンダー及びジェンダーに不一致(gender non-conforming)な人びとのための広範なアイデンティティを包含する少数グループとして位置付けた[115]。2014年の調査によると、回答ではジェンダー・アイデンティティについて16の異なる表現が用いられていた[116]。最高裁は、身分証明文書及び政府登録において第3の性であると法律上認定される唯一の基準は、本人の「自己意識」であるとの判断を示した[117]。判決では、自由権規約第16条が保障する、法の下で人として認められる権利、及びジョグジャカルタ原則が参照された。
- 2013年、インド最高裁判所は、医療処置が、法律上のジェンダー・アイデンティティ認定の要件であるべきではないとの判断を示した。裁判所は次のように述べた。「自らのジェンダー認識に一致する性が有するジェンダー特徴を得るために外科処置などにより身体や見た目を変更する人がほとんどおらず、その結果、出生時に公式に登録された性別が見た目から推察されるジェンダー・アイデンティティと一致せず、法的・社会的混乱が生じている」。さらに裁判所は「したがって性自認とは、男性、女性、トランスジェンダー、またはその他のカテゴリーであるとの本人の自己認識を指す」と述べた。また、「法律上の性自認認定の要件として、何人も性別適合手術、断種、ホルモン療法などの医療処置を強制されてはならない」とし、不妊(断種)の義務化は許されないことを明確に述べた[118]。
- 2015年、デリー高等裁判所は「すべての人が自らのジェンダーで認定される基本的権利を持つ」こと、また「性自認と性的指向は、自己決定権、尊厳及び自由の根源である」[119]ことを強調した。
トランスジェンダーである子どもの権利
法の下に人として認められる権利は、世界人権宣言に明記されており、自由権規約及び子どもの権利条約で保障されている[120]。自らのアイデンティティ(身元関係事項)を保持する権利は子どもの権利条約第8条で保障されている。条文ではアイデンティティの3つの側面(国籍、氏名、家族関係)が言及されているが、限定列挙ではない。自由権規約17条などの定める私生活への恣意的な干渉から保護される権利と共に、自らのアイデンティティを保持する権利は、国家が発行する文書に子どもを含むすべての人の自らのアイデンティティが表記される権利も含むのである。
子どもの権利条約第3条1項は「子どもに関するすべての措置をとるに当たっては、公的若しくは私的な社会福祉施設、裁判所、行政当局又は立法機関のいずれによって行われるものであっても、子どもの最善の利益が主として考慮されるものとする」[121]と明記している。この条項は、トランスジェンダーである子どもの法律上の性別認定の決定も含むものである。
同12条は、子どもの最善の利益を判断するにあたり、当の子どもが意見を求められ、考慮されなければならないとしている。
- 締約国は、自己の意見を形成する能力のある子どもがその子どもに影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、子どもの意見は、その子どもの年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。
- このため、子どもは、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる[122]。
診断基準の変化
日本の精神科医療では、WHOの『国際疾病分類』(ICD)と、アメリカ精神医学会の『精神疾患の診断・統計マニュアル』(DSM)が共に用いられている。そのどちらもが「精神疾患」のセクションから「性同一性障害」と「トランスセクシュアリズム(性転換症)」の診断名を削除している。
2012年にアメリカ精神医学会理事会がDSM最新版のために加えた変更により「性同一性障害」の語が削除され、「性別違和(Gender Dysphoria)」という語が追加された。これは「実感されている/表現されているジェンダーと割り当てられたジェンダーとの間の相当な違和」によって生じる苦痛として具体的に定義されている。アメリカ精神医学会は次のように明記する。「ジェンダーに不一致であること(gender non-conformity)そのものは精神疾患ではない点に留意することが重要だ。性別違和の決定的な要素は、その状態と関連する臨床上の強い苦痛の存在である。[123]」
WHOは、2018年6月にICDの改訂版(ICD-11)を発表した[124]。この新しいWHOガイドラインは、「性同一性障害」を「性別不合(gender incongruence)」へと表現を変えた上で、診断コードを精神疾患の章からセクシュアル・ヘルスの章に移動させた。このことは、トランスジェンダーの青年と成人にとって、「精神疾患」と見なされずに医療を求めうる時期が早晩訪れる点で、大きな前進である。WHOの意思決定機関であり、加盟194カ国の代表者が参加する世界保健総会で、2019年にICD-11が承認される見込みだ。各国政府はその後2022年までに診断コード体系を変更することが求められる。 WHOは「エビデンスによれば、それ〔=ジェンダー・アイデンティティ〕が精神疾患ではないことは明らかであり、もし精神疾患に分類すれば、トランスジェンダーの人びとに多大なスティグマをもたらす可能性がある」と記している[125]。ICD-11ワーキンググループのあるメンバーは改訂プロセスをこう説明した。
国連機関であるWHOには人権というミッションがあり、そしてトランスジェンダーの地位と精神疾患の結びつきから生じる多大なスティグマが、不安定な法的地位、人権侵害、及びトランスジェンダーの人びとというグループが適切な医療を受ける障壁となっていることを示す多くのエビデンスがある[126]。
性的指向と性自認に関する国連の独立専門家は、この変更が「性別適合のための医療処置その他何らかの身体的変更を求めないトランスジェンダーの人びとについて、診断を行う理由がない」ことを明示した点に注意を促している[127]。
日本の法律上の性別認定手続きは、トランスジェンダーの人びとに対し、自らの性自認の法律上の認定のために医療処置を受けることを求めるなど、推奨されるモデルからいくつものレベルで外れている。こうした状況は矛盾する効果を生んでいる。性別適合のための医療処置が日本で可能であることは、医療行為の進歩とトランスジェンダーの人びとへのケアを医療界が受け入れていることを、ある程度反映している。だがそのことはまた、トランスジェンダーの人びとにスティグマを負わせる一因である病理学的モデルを強化してもいるのである。
謝辞
本報告書のためのインタビューは、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー(LGBT)の権利プログラム調査員のカイル・ナイト、日本代表の土井香苗、子どもの権利局上級顧問のマイケル・ガルシア・ボヘネクが行った。
杉山文野氏、土肥いつき氏、大阪府立大学 東優子氏、ヒューマン・ライツ・ウォッチ東京オフィスのインターン岡部エミリー氏、南日可那子氏、大野倖太氏、竹田悠人氏、小郷綾子氏、菊本寛氏、及び吉岡利代(上級プログラムオフィサー)、笠井哲平(プログラムオフィサー)からは、アウトリーチと文献調査などで支援をいただいた。2016年にヒューマン・ライツ・ウォッチ ロンドンオフィスのインターンだったトイボネン菜穂氏には、本報告書で言及した訴訟に関する背景情報について多くの調査と分析を行っていただいた。
本報告書の内容は、LGBTの権利プログラム・ディレクターのグレーム・リード、土井香苗、マイケル・ボヘネクが校正編集した。法律及びプログラムの観点からは、法務・政策ディレクターのジェームズ・ロス及びプログラム・オフィス上級エディターのダニエル・ハースが校正編集を行った。日本語版については翻訳を箱田徹氏と秋元由紀氏に、専門家による訳文監修を金沢大学 谷口洋幸氏に行っていただいた。作成支援はLGBTの権利プログラム・コーディネーターのMJ・モヴァヘディと総務マネージャーのフィツロイ・ヘプキンスが行った。
本報告書のために個人的な体験をお話くださったトランスジェンダーの皆様に心よりお礼を申し上げる。